第8話「生物学的な父子関係が成立する確率は0.00%」
第八話:偽りの雪解け、亀裂の音
ホテルのラウンジでの緊張感あふれる対面から数日。響子からの「もう争うのはやめましょう」という言葉は、佐伯家にもかすかな変化をもたらしていた。啓介の明確な遺志が示された書面、そして響子の態度の軟化。佳乃は依然として心の整理がつかないでいたが、和哉の「母さん、父さんの遺志も明らかになった。響子さんもああ言っている。もう、この辺りで…」という言葉に、長く張り詰めていたものが少しだけ緩むのを感じていた。
田中弁護士と高村弁護士の間では、具体的な条件交渉が慎重に進められていた。
認知については、啓介の遺言に基づき、法的手続きを進めることで合意。
遺産分割に関しても、啓介の遺言に記された「個人資産の一部」という範囲内で、大輝君の将来の養育費を含めた現実的な額での着地点を探っていた。響子側が過度な金銭的要求をせず、穏便な解決を望んでいるかのような姿勢を見せていることは、交渉をある程度スムーズにしていた。
「…慰謝料請求に関しましても、こちらとしては取り下げる方向で検討しております」
田中弁護士のその言葉に、高村弁護士は安堵の表情を浮かべた。表向きは、雪解けの兆しが見え始めていた。
しかし、佳乃の胸の奥底では、消えない疑念の炎が燻り続けていた。響子の涙も、啓介の遺した言葉も、どこか腑に落ちない。
「先生…やはり、私は…」
田中弁護士の事務所で、佳乃は絞り出すように言った。
「あの子供が、本当に夫の子なのか…それをはっきりさせない限り、私は納得できません」
田中弁護士は、佳乃の憔悴しきった表情と、その瞳の奥に宿る消えない光を見て、静かに頷いた。
「…わかりました。実は、万が一のために、啓介氏の遺品からDNA鑑定に必要な検体は確保してあります。桐谷響子氏側には内密に、大輝君とのDNA鑑定を進める手配をいたしましょう。結果が出るまで、しばらくお時間をいただきますが…」
佳乃は、こわばった表情で頷いた。それが、彼女が自分自身に下せる、最後のけじめなのかもしれなかった。
和解協議が大詰めを迎え、佐伯家にもようやく重苦しい空気が薄れ始めたかのように見えた、ある週末の午後。
菜々美は、父・啓介の書斎の整理を手伝っていた。父の不在が、まだ生々しく感じられる空間。思い出の品々を手に取るたびに、胸が締め付けられる。
ふと、佳乃が普段使っている机の脇の、普段は鍵がかかっているはずの小さな引き出しが、わずかに開いているのに気がついた。母は最近、心労からか物忘れが多くなっている。
「母さんったら、また…」
軽い気持ちで引き出しを閉めようとした菜々美の目に、いくつかの封筒が留まった。その中の一つ、厚手のA4サイズの封筒には、検査機関らしきロゴと「DNA鑑定報告書」という文字が見えた。そして、もう一つ、見慣れない保険会社のロゴが入った封筒も。
言い知れぬ胸騒ぎを覚えながら、菜々美は周囲を窺い、そっと「DNA鑑定報告書」と書かれた封筒を手に取った。指先が微かに震える。開けるべきではない、と頭では分かっている。しかし、抑えきれない好奇心と、何か恐ろしいものを見てしまうかもしれないという予感が、彼女の手を動かした。
中には、数枚の書類が綴じられていた。専門用語が並ぶ中、菜々美は必死で鑑定結果の部分を探した。そして、その一文を見つけた時、彼女は息を呑んだ。
【DNA鑑定報告書】
依頼者:田中一郎法律事務所 御中
被検者甲(父・推定):故 佐伯啓介 氏(遺品より採取された試料に基づく)
被検者乙(子):桐谷大輝 氏(口腔内粘膜より採取された試料に基づく)
検査目的:被検者甲と被検者乙間の父子関係の生物学的鑑定
検査方法:STR型検査(15ローカス)
(中略:検査数値データ)
鑑定結果:
上記の検査結果に基づき、被検者甲(故 佐伯啓介氏)と被検者乙(桐谷大輝氏)の間に、生物学的な父子関係が成立する確率は0.00%です。
結論として、被検者甲と被検者乙の間に、生物学的な父子関係は認められません。
「…………え?」
菜々美の頭の中が、真っ白になった。
「うそ…でしょ…? 父さんの…子供じゃ…ない…?」
報告書を持つ手がわなわなと震え、紙が擦れる音がやけに大きく響く。全身から血の気が引き、立っているのもやっとだった。
あの女は、ずっと嘘をついていた…? 父さんも、騙されていた…? あの遺言は…何だったの…?
混乱する頭で、菜々美は隣にあったもう一つの封筒に、震える手を伸ばした。それは、生命保険会社からのもののようだった。中には、保険証書のコピーと、保険金支払に関する通知書らしきものが入っていた。
【生命保険証書(写)】
保険契約者:佐伯啓介
被保険者:佐伯啓介
死亡保険金受取人:桐谷響子
死亡保険金額:金 伍阡萬円也(50,000,000円)
「ご…ごせんまんえん…!?」
菜々美は、思わず声を漏らした。
「あの女が…父さんの生命保険の受け取り人に…? しかも、5000万…!?」
DNA鑑定の結果と、この生命保険の事実。二つの衝撃が、菜々美の中で一つの恐ろしい結論へと結びつこうとしていた。
「まさか…あの女…全部、知ってた上で…私たちを…父さんを…騙して…!?」
あの涙も、和解を求める言葉も、全てが計算された演技だったとしたら…?
激しい怒りと、裏切られたという絶望感、そして言いようのない恐怖が、菜々美の全身を貫いた。
「許せない…絶対に…許せるわけがない…!!」
菜々美は、二通の書類を握りしめ、嵐のような感情に突き動かされるように書斎を飛び出した。
その足は、まっすぐに母・佳乃の元へ、いや、もしかしたら、全ての元凶である桐谷響子の元へと向かっているのかもしれなかった。
佐伯家と桐谷響子の間に、ようやく訪れるかと思われた雪解け。それは、あまりにも脆く、そして偽りのものだった。
水面下で進んでいた真実の断片が、今、最も衝撃的な形で露見し、物語は再び激しい嵐の中へと引き戻されようとしていた。
菜々美が握りしめた二通の書類は、新たな戦いのゴングを鳴らす、破滅の序曲だった。
(つづく)
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