第5話:二つの法廷、それぞれの正義



第五話:二つの法廷、それぞれの正義


桐谷響子の代理人弁護士から、佐伯家の代理人である田中弁護士のもとへ、正式な要求書面が送られてきたのは、あの嵐のような葬儀から二週間が過ぎた頃だった。その内容は、予想通り、そして予想以上に佐伯家の神経を逆撫でするものだった。


【佐伯家サイド】


田中弁護士の事務所に、再び佐伯家の面々が集まっていた。テーブルの上には、響子側弁護士からの分厚い書面が置かれている。


「…死後認知の訴えの提起準備、遺産分割協議への参加要求、桐谷響子氏本人への慰謝料的給付及び解決金の要求、そして桐谷大輝君の養育費として月額三十万円の請求、ですか…」

田中弁護士が、書面の内容を読み上げると、佳乃は怒りに顔をこわばらせた。


「慰謝料的給付ですって? 養育費が三十万!? ふざけていますわ! あの女は、私たちをどこまで馬鹿にすれば気が済むの!」

佳乃の声は、震えながらも、以前の弱々しさは消え、鋼のような硬質さを帯びていた。夫の裏切りと響子の出現は、彼女の中から何かを決定的に変えてしまったのだ。


「母さん、落ち着いて」和哉が制したが、その声にも怒りが滲む。「田中先生、これに対する私たちの対応は…」


「断固として拒否すべきものは拒否します」田中弁護士はきっぱりと言った。「まず、響子さんご自身への慰謝料的給付や解決金については、法的な根拠が薄弱です。むしろ、こちらから佳乃様の精神的苦痛に対する慰謝料を請求する準備を進めます。養育費についても、仮に大輝君の認知が認められたとしても、月額三十万円という金額は、法的に算定される標準額を大幅に超えています。これは交渉の余地が大いにあります」


菜々美が、拳を握りしめて言った。

「当たり前よ! 父さんの財産は、汗水流して家族のために築いてきたものよ! あんな女や、どこの馬の骨とも分からない子供に、やすやすと渡してたまるもんですか!」


「菜々美、言葉には気をつけなさい」和哉が窘めたが、その表情は妹に同意していることを隠せない。


田中弁護士は続けた。「死後認知の訴えについては、相手方がDNA鑑定を求めてくれば、応じざるを得ないでしょう。そして、もし親子関係が認められれば、大輝君の法定相続権は発生します。しかし、それはあくまで法律で定められた範囲内のことです。それ以上の不当な要求に応じる必要はありません」


「分骨の件も、改めて拒否の姿勢を明確に伝えます」と和哉。

「ええ、それが賢明です」と田中弁護士。


佳乃は、窓の外に目をやり、静かに、しかし力強く言った。

「先生、私は戦います。あの女の言いなりになるつもりは毛頭ありません。夫が残したものを、そして私たちの家族の尊厳を、全力で守り抜きます」

その瞳には、悲しみではなく、決然とした光が宿っていた。和哉も菜々美も遥香も、母のその言葉に強く頷いた。佐伯家は、今、一つの結束を固めようとしていた。


【桐谷響子サイド】


一方、響子は自身の代理人弁護士である若手の女性弁護士・高村と共に、反論の準備を進めていた。高村は、響子の「真実の愛」という言葉に一定の理解を示しつつも、法的な戦略を冷静に練っていた。


「佐伯さん側は、かなり強硬な姿勢のようですね」高村が、田中弁護士からの返答書面を見ながら言った。「慰謝料請求も示唆してきています」


響子は、ふんと鼻を鳴らした。

「奥様が慰謝料ですって? 笑わせるわ。長年、夫婦関係が冷え切っていたくせに。啓介さんが本当に愛していたのは、私と大輝ですもの」


「桐谷さんのお気持ちは分かりますが、法廷では感情論だけでは通用しません。啓介さんと桐谷さんの関係の深さ、そして啓介さんが桐谷さんやお子さんの将来を真剣に考えていたという具体的な証拠が必要です」高村は冷静に諭す。


「証拠ならありますわ」響子は、奥から古びたアルバムと、いくつかの手紙の束を取り出した。「これは、啓介さんと旅行に行った時の写真。この手紙には、彼がどれだけ私たちを愛し、将来を約束してくれていたかが書かれていますわ。『君と大輝がいれば、俺は何もいらない』って…」

響子の声は、故人との甘い記憶を辿るように震え、目には涙が滲んでいた。


高村は、それらの資料に目を通しながら言った。

「これらは、内縁関係の実態や、故人の意思を推し量る上で、重要な手がかりになるかもしれません。特に、養育費の算定や、慰謝料的給付の交渉において、桐谷さんの貢献度や故人の約束といった要素を主張できる可能性があります」


「大輝の認知は、絶対に勝ち取ります。あの子には、父親の愛情と、そして当然受け取るべきものを残してあげたい。それが、母親としての私の使命ですわ」響子は、眠る大輝の頭を優しく撫でた。その姿は、一見すると献身的な母親そのものだった。


「分骨の件も、諦めるつもりはありません。親子関係が認められれば、人道的な観点からも、考慮されるべきです。大輝に、父親の存在を身近に感じさせてあげたいのです」


高村は頷いた。「まずは、死後認知の訴えを正式に提起し、DNA鑑定を求めましょう。並行して、遺産分割協議への参加と、桐谷さんの特別寄与、そして慰謝料的給付を求める調停を申し立てることも検討します」


響子は、窓の外を見つめた。その先には、佐伯家の大きな屋敷があるわけではない。しかし、彼女の心は、見えない敵との戦いに向けて、静かに燃えていた。

(啓介さん…見ていて。私たちの愛は、誰にも汚させないわ。大輝と私の権利は、私が必ず守り抜いてみせる…)


【分岐点】


数週間後、田中弁護士と高村弁護士は、家庭裁判所の調停室で初めて顔を合わせた。

遺産分割調停と認知調停。二つの法的な手続きが、同時に進行しようとしていた。


調停委員を介して、双方の主張が改めてぶつけられる。

佐伯家側は、響子本人への金銭的要求は一切拒否し、子供の認知と法定相続分以上の譲歩はしないという強硬な姿勢を崩さない。佳乃の響子への慰謝料請求も辞さない構えだ。

一方、響子側は、「真実の愛」と「故人の意思」を盾に、内縁関係の保護と、それに基づく手厚い給付を求める。大輝の養育費も高額なまま譲らない。


調停委員は、双方の溝の深さに頭を抱える。

「…このままでは、調停での合意は難しいかもしれませんね。訴訟に移行することも視野に入れなければなりません」


その言葉は、佐伯家と響子の戦いが、さらに長く、そして熾烈なものになることを予感させた。

法廷という舞台で、それぞれの「正義」を掲げた女たちの戦い。その先に待つのは、和解か、それとも徹底的な断絶か。

物語は、大きな分岐点に立たされた。どちらの主張が、より法と社会の共感を得るのか。そして、故人・佐伯啓介が本当に望んでいたものは何だったのか。その答えは、まだ誰にも見えていなかった。


(つづく)

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