第3話「…あんなの、ウソ泣きだろ!」
第三話:偽りの涙、そして反撃の序章
親族控室での嵐のようなやり取りの後、桐谷響子は、まるで嵐が過ぎ去った後の静けさを装うかのように、子供を抱いて一旦姿を消した。しかし、佐伯家にとって、それは束の間の静寂でしかなかった。
葬儀の時間は刻一刻と迫っていた。
母・佳乃は、遥香に支えられながらも、気丈に喪主としての務めを果たそうと顔を上げた。しかし、その顔色は蒼白で、目には深い絶望の色が浮かんでいる。
「和哉、菜々美…あんな女の言葉に惑わされては駄目よ。お父様は…そんな人じゃ…」
言葉は途切れがちで、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
俺も菜々美も、母の言葉に頷きながらも、心の奥底では言いようのない不安と疑念が渦巻いていた。
(親父が…本当に…?)
やがて、読経が始まり、葬儀が厳粛に執り行われていく。
一般参列者の焼香が続く中、俺たちの視線は、自然と会場の隅々へと向けられた。
(あの女…本当に帰ったのか…?)
その時だった。
一般席の後方、目立たない位置ではあったが、確かに彼女はいた。桐谷響子が、腕に大輝を抱き、静かに佇んでいたのだ。
控室での剣幕とは打って変わって、神妙な面持ちで祭壇を見つめている。時折、ハンカチで目元を押さえる仕草も見えた。
「…やっぱりいたわ」
菜々美が、忌々しげに呟いた。
「どの面下げて来てるのよ…」
葬儀は、基本的には誰が参列してもいいのが通例だ。故人と縁があったと本人が思うならば、それを止める権利は誰にもない。
響子がそのことを知っていて、あえて参列しているのだとしたら、それは計算高い挑発行為に他ならなかった。
「とやかく言われる筋合いはないわ!」
控室での彼女の言葉が、脳裏に蘇る。葬儀に参列すること自体は、彼女の言う通り「筋違い」ではないのかもしれない。しかし、その背景にある事情が、全てを歪めていた。
焼香の順番が回ってきたのか、響子がゆっくりと列に並び始めた。
その姿は、他の参列者と何ら変わらないように見える。しかし、俺たち家族にとっては、その存在自体が耐えがたい苦痛だった。
「…顔だけ見に来たってわけか…」
俺は皮肉っぽく呟いた。
響子は焼香を済ませると、再び後方の席に戻り、静かに手を合わせていた。その瞳は潤んでいるようにも見えた。
「…あんなの、ウソ泣きだろ!」
菜々美が、吐き捨てるように言った。
俺も同感だった。彼女の涙は、悲しみからくるものではなく、何か別の感情…自己憐憫か、あるいは計算された演技のようにしか思えなかった。
葬儀が終わり、出棺の時。
棺が運び出される際、響子は、他の参列者に紛れるようにして、その様子をじっと見つめていた。その表情は、先ほどとは違い、どこか硬く、決意を秘めているようにも見えた。
そして、霊柩車が葬儀場を後にするのを見届けると、誰に声をかけるでもなく、静かにその場を去っていった。
その日の夜、佐伯家は重苦しい沈黙に包まれていた。
葬儀という大きな行事を終えた安堵感よりも、響子の存在が残した爪痕の方が、はるかに大きかった。
「…これから、どうすればいいの…」
母が、力なく呟いた。
「弁護士に相談するしかないと思う」俺は言った。「あの女、本気だ。子供の認知だの、財産だの…法的にどうなのか、ちゃんと確認しないと」
菜々美は、テーブルを叩きそうな勢いで反論した。
「でも、認めるなんて絶対に嫌よ! 父さんの財産は、母さんと私たちのものよ! あんな女たちに渡すなんて、まっぴらごめんよ!」
「気持ちは分かる。俺だってそうだ」俺は菜々美を宥めた。「でも、感情だけじゃどうにもならない。法的に相手に権利があるなら、それを無視することはできないんだ」
遥香が、おずおずと口を開いた。
「…お父さん、本当に…あの子の父親なのかな…」
その言葉に、誰もが口を閉ざした。それが、一番知りたくて、一番知りたくない事実だった。
翌日、俺は一人で、知人から紹介された弁護士事務所の門を叩いた。
田中と名乗る初老の弁護士は、俺の話を静かに、しかし鋭い眼差しで聞いていた。
葬儀での出来事、響子の言葉、そして俺たちの不安。全てを包み隠さず話した。
「…なるほど。大変な状況ですね」
田中弁護士は、一通り話を聞き終えると、重々しく口を開いた。
「まず、桐谷響子さんと名乗る女性とそのお子さんについて、法的な観点から整理してお話しする必要があります」
そして、弁護士の口から語られたのは、俺たちが薄々予感しながらも、認めたくなかった現実だった。
遺言の有無、子供の認知、死後認知の訴え、内縁関係…
それは、これから始まるであろう、佐伯家にとって長く、そして困難な戦いの序章を告げる言葉だった。
事務所を出た時、空はどんよりと曇っていた。
(親父…本当に、どうしてこんなことになったんだ…)
俺は、天を仰ぎながら、改めて亡き父への複雑な思いを噛み締めていた。
そして、あの響子の、偽りの涙の奥に隠された冷徹な瞳を思い出し、これから始まる戦いへの覚悟を、静かに固めるのだった。
(つづく)
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