「上座の女~葬列を乱す愛人~」

志乃原七海

第1話「…あなた、一体誰なんですか」



第一話:漆黒の舞台、招かれざる主役


重く、低い読経の声が、白木と菊の香りに満ちた葬儀場に染み渡っていた。

父、佐伯啓介が逝って三日。俺、佐伯和哉は、喪主の母・佳乃の隣で、ただ現実感のないまま、その声を聞いていた。母は憔悴しきった顔で俯き、時折小さく肩を震わせている。その後ろには、目を赤く腫らした妹の菜々美と遥香が、固い表情で座っていた。


父は町工場を経営し、実直な人柄で多くの人に慕われていた。親族席は、父方の叔父叔母、母方の親戚で埋まり、誰もが悲しみを湛えながらも、静かに儀式の進行を見守っていた。一般席にも、仕事関係者や古くからの友人たちが続々と訪れ、焼香の列が途切れない。

(親父らしい、穏やかで、大勢に見送られる葬儀だな…)

そんなことをぼんやりと考えていた時だった。


「…ん?」


最初に異変に気づいたのは、叔父の一人だったかもしれない。親族席の前方、本来なら母の隣、あるいはそれに準ずる近親者が座るべき上座の一角に、見慣れない若い女性が、いつの間にか座っていたのだ。

年の頃は三十代前半だろうか。高価ではないが、明らかに仕立ての良い、品のある喪服に身を包んでいる。その佇まいには、場違いなほどの落ち着きと、隠しきれない強い意志のようなものが漂っていた。そして、その腕には、まだ言葉も話せないであろう幼い男の子が抱かれている。


そういえば、と俺は思い出す。先ほど、受付にいた父の会社の若い社員の一人が、この女性を見て一瞬目を見開いたが、すぐに何かを悟ったように、黙って中へ通していたのを、人いきれの向こうに見ていた。あの時は気にも留めなかったが…。


「…どなただろう?」

「…さあ…見たことない顔ね…」

ひそひそとした囁きが、親族席に波紋のように広がっていく。母も、怪訝な顔でそちらに視線を向けた。

妹の菜々美が、怒りを滲ませた低い声で俺の背中をつついた。

「お兄ちゃん…あの女、誰よ…?」


読経が一時途切れ、焼香の案内が始まった。親族が順に立ち上がり、焼香台へと向かう。

その列の中に、当たり前のようにその女性も加わっていた。しかも、母や俺たち兄妹のすぐ後ろに、臆面もなく。

子供を抱いたまま、慣れた手つきで焼香を済ませると、彼女は再び、あの上座へと戻っていった。


葬儀が終わり、親族が控室に戻ると、そこはもう異様な緊張感に包まれていた。

「一体どういうことなんだ、和哉!」

一番年長の叔父が、声を荒げた。

「あの女性は誰なんだ! なぜあんな場所に座っていたんだ!」


俺が何か答える前に、控室の入り口に、件の女性が立っていた。子供はすやすやと眠っている。

「皆様、本日は父…いえ、佐伯啓介のために、ありがとうございました」

凛とした、しかしどこか挑戦的な声だった。


「…あなた、一体誰なんですか」

母が、震える声で問い詰めた。


女性は、ふっと息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。

「私は、響子と申します。桐谷響子と。そしてこの子は…啓介さんと私の子供、大輝です」


一瞬、控室が凍り付いた。

誰もが、言葉を失って響子と名乗る女を見つめる。


「…愛人…だと?」

叔父の一人が、絞り出すように言った。


響子は、悲しげに、しかしどこか誇らしげに頷いた。

「ええ。啓介さんとは、長年お付き合いさせていただいておりました。彼は、私たち親子を心から愛してくれていました」


「ふざけないで!」

菜々美が鋭い声で叫んだ。

「父がそんなことするはずないわ! あなた、一体何が目的なの!」


「待て、菜々美」

俺は、激高する妹を制し、響子とまっすぐに向き合った。頭の中は混乱している。だが、ここで俺がうろたえるわけにはいかない。

「…あなたの言うことが本当だというなら、何か証拠があるはずだ。ただの言葉だけじゃ、誰も信じない」


俺の言葉に、響子は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「証拠…ですか。啓介さんは、もしもの時はこれを、と…」

彼女は小さなバッグから、丁寧に布に包まれたものを取り出した。

現れたのは、使い込まれた古い万年筆だった。父が亡くなる直前まで、胸ポケットに挿していた、祖父の形見だ。俺たち家族ですら、触れることを許されなかった、父の魂のような品だった。


「なっ…!」

母が、わなわなと震えだした。隣で支える遥香の目も大きく見開かれている。叔父たちも絶句し、控室の空気は重く、息苦しく淀んだ。

なんだよ、それ…親父が、愛人…? 子供まで…?

穏やかだった父の顔が、今は得体の知れない他人のように思える。怒りと裏切られた悲しみが、腹の底から湧き上がってきた。


すると響子は、そんな俺たちの絶望を肯定するかのように、顔を上げ、こう言ったのだ。

まるで、それが世界の真理であるかのように、絶対的な確信を持って。


「なぜ、ですって? …愛しているからですわ。啓介さんのこと、そしてこの子のことも。だから、当然のこととして、ここに来たのです」


その言葉は、漆黒の悲しみに包まれた葬儀場に、もう一つ、どす黒い感情の渦を巻き起こした。

父の死が、こんな形で、俺たち家族の知らない「真実」を暴き出すとは。

だが、もうただ見つめているだけではいられない。

母さんを、妹たちを、そして親父が人生をかけて築き上げてきたものを、この得体の知れない女から守り抜かなければならない。


葬儀場の外は、まだ陽が高いというのに、俺たちの未来は、先の見えない暗闇に突き落とされた。しかしその闇の底で、俺は静かに闘志を燃やしていた。


(つづく)

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