7 眠り谷へ還る


山奥に「眠り谷」と呼ばれる小さな集落がある。

訪れた者は必ず三日三晩、深い眠りに落ち、夢の中で谷の人々と同じ生活を送るという。目覚めた時には、夢か現実か区別がつかなくなる──そんな怪談めいた噂が、登山客の間で囁かれていた。


僕は民俗学の研究者として、その真偽を確かめるため谷に入った。

着いた途端、村人たちは親しげに迎え入れ、囲炉裏のそばで山菜料理を振る舞ってくれた。眠気はすぐに襲ってきた。まるで春先の日差しのような柔らかさで、抗うことができなかった。


気づけば、僕は畑を耕し、薪を割り、祭りで踊る日々を過ごしていた。村人の名も、家々の位置も、井戸の水の冷たさも、すべてを自然に知っていた。

やがて三日目の夜、村の長老が告げた。

「あなたはもう、夢から覚める時だよ」


まぶたを開けると、そこは山小屋の中。同行していた助手が心配そうに覗き込んでいた。

「三日間ずっと眠ってましたよ」

僕は笑って事情を話したが、助手は首を傾げた。

「何もない谷でしたよ。人家なんてひとつもなかった」


研究所に戻っても、僕の頭には谷の記憶が生々しく残っていた。忘れたくなくて、地図に村の位置を書き込んだ。すると不思議なことに、その地点には次第に点線の道が描き足され、やがて集落の記号まで現れた。地図会社の公式データだという。

まるで初めから記されていたようだ。


ある晩、窓を叩く音で目が覚めた。そこには谷の幼い少女が立っていた。夢の中で何度も遊んだ子だ。

「おじさん、帰ってきて。みんな待ってる」

彼女が手を伸ばすと、部屋の空気がふっと軽くなった。


僕は無意識にその手を握った。


翌朝、助手は僕の姿が忽然と消えていることに気づいた。机の上には、一枚の地図が置かれていた。

そこには、眠り谷の周囲に「ここから先、覚醒禁止」と赤い文字で書かれていた。

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