3 湯けむりに消えた記憶
「記憶温泉・久忘荘(くぼうそう)へようこそ」
フロントでそう告げた女将は、どこか懐かしい顔立ちをしていた。白い割烹着に、きちんと結い上げられた髪。柔らかな微笑みが、遠い昔の母の顔と重なるような気がした。
「忘れたいことがある方に、とても人気なんですよ」
そう添えられた言葉に、僕は小さく笑った。
忘れたいこと。
そんなもの、誰にだって一つや二つある。
この宿の売り文句も、観光地にありがちなハッタリに違いないと、最初は思っていた。
でも、なぜここを選んだのか、どうしてもここに来たかったのか。
その理由が自分の中でやけに強かったことだけは、妙に引っかかっていた。
通された部屋は、古びてはいるが清潔で、どこか懐かしさを誘う造りだった。窓を開けると、遠くに湯けむりがゆらめき、森の匂いが流れ込んできた。畳に腰を下ろし、少しぼんやりした後、僕は備え付けの浴衣に着替え、露天風呂へ向かった。
夜の風はひんやりとして、湯のぬるさが心地よかった。
肩まで浸かると、じんわりと身体がほぐれていく。
湯けむりの向こうに見えるのは、無数の星。
まるで、遠い記憶の断片のように、きらきらと、静かに瞬いていた。
しばらく黙って湯に浸かっていると、隣にいた老人がふと口を開いた。
「……あんた、何を忘れに来たんだい?」
不意を突かれた僕は、思わず顔を向けた。
痩せた体に、深く刻まれた皺。どこか達観したような目をしていた。
「ええと……たしか、何か……」
言いかけて、言葉が止まった。
恋人の裏切り? 仕事の失敗? 誰かの死?
どれも当てはまるようで、どれも違うような気がする。
思い出せない。感情の輪郭さえも、ぼんやりと霞がかかっていた。
「この湯に浸かるとね、人は“忘れたい記憶”だけが、ゆっくりと削ぎ落とされるんだよ」
老人は静かに言った。
「ただし、代償として――“忘れたことを忘れる”。
何を消したのか、その痕跡すらも、湯に溶けて消える。そういう宿なんだ、ここは」
僕は湯の中で息をのんだ。胸の奥が妙にざわつく。
何か、大事なものが確かにあった。
でも、それが何なのか、もうどうしても思い出せない。
いったい、僕は何を――?
気がつけば、老人の姿も消えていた。
夜空には相変わらず、星が静かに瞬いていた。
翌朝。
荷物をまとめてフロントに向かうと、女将が昨日と同じ笑みを浮かべていた。
「お忘れ物は……ございませんね?」
僕は一瞬だけ間を置き、笑って答える。
「はい、なにも」
……本当に、なにも思い出せない。
なぜこの宿を選んだのか、どんな悩みを抱えていたのか。
まるで初めからなかったように、頭も心も、空っぽだった。
ただ、心のどこかが妙に軽く、痛みも悔しさもない。
そこにあったはずの重さごと、湯に流してしまったように。
僕は振り返ることなく、宿をあとにした。
ふと、頬に触れた風が、どこか懐かしい匂いを運んできた気がしたが――
それもまた、すぐに忘れてしまった。
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