第3部 溺れて、壊れて、逃げて
◆
「ナナセぇ……、今、何時……?」
「んーと……、うわ、6時だ……」
「……もう朝になったんだね」
「少し光漏れてきてるよ」
「なんか……、前もこんな会話したよね」
「リアルでもするなんて、夢みたいだな」
「あははっ、なにその矛盾した言い方」
「ゲーム、もう1戦くらいやる?」
「うん……、でも少し休憩……」
暗幕の下りた、6畳ほどの薄暗い部屋。明るさの落ちたテレビの中で、待機中のキャラが飛び跳ねたり、瞬間移動したり、武器を振り回したりしている。
夢うつつの中、平田の細い背中がすぐそこにあって、頭まで布団をかぶっている。
「寒いんですけど……」
「ナナセが布団蹴ったんでしょ、暑いーって」
「平田が引っ張ったんじゃん」
「なら取り返せばよかったのに」
「それは悪いなーって思って……、一応、平田の布団なわけだし」
「私がベッド行けばよかっただけなんだけどね。めんどくさくて」
「布団貸してくれてるわけだし、全然いいよそれは。平田の好きにしてくれたら」
「律儀だよね、ナナセって」
「まあ、どっかの誰かさんとは違ってな」
「そういうこと言うんだ……――」
――かさっ。
彼女が使っているPCも、僕が借りているコントローラーも、どちらもヘッドホンに繋がれていて、この部屋は静かな空気に包まれている。そんな閑静な早朝、誰にも邪魔なんてされない二人ぼっちのワンルームで、布団の擦れる音が響いた。
「――これでもまだ、そんな皮肉言えるの……?」
少し乱れた髪。
リップのついていない、素の唇。
ゲーム画面の光に淡く照らされた、白い肌。
潤んだような、寝ぼけ眼。
――微睡んだ視界の真ん中で、平田が僕を見つめていた。
「な、なんだよ急に……」
「へへっ、布団がなくて可哀想だから、近くに来てあげた」
眠そうな君は、とろんとした顔で僕に笑いかけてくる。
「……布団渡してくれるだけでよかったのに」
「またそういうこと言う」
「……」
「もうゲームしませーん、おやすみなさーい」
そう言って、彼女はすぐにいじけてしまう。
ネット上でやり取りしているときも薄々思っていたけれど、実際に会ってみると、その印象がさらに強くなって、『すごく可愛いな』と思ってしまった。
……だから、そんな彼女を見てしまうと、いてもたってもいられなくなってしまう。
「待ってよ――」
再び背中を向けようと寝返りを打った彼女の肩に触れる。手を伸ばしても届くはずのなかった彼女の温もりが、今はTシャツ越しに優しく伝わってくる。
「なに」
「――ミヤビ」
「……」
「――――。――」
「……ナナセって、意外とチャラいよね」
「そんなことないよ」
離れる唇に、3秒前の未練を感じる。
「煙草、吸いたい」
「駄目」
「なんでよ」
「長生きしてほしいから」
「重い」
「うるせぇ」
近くなった距離感に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
6月20日、バーチャルの空の下で出会ったあの日から、――ずっと君に会いたかった。君に会える日を待ちどおしにしていた。君と目を合わせたかった。その肌に触れたかった。イヤホン越しの、合成音声じゃない、君の〝本当の声〟が聴きたかった。
クーラーの効いたひんやりとした部屋、タオルケットのない布団の中で、僕は君と寝転んでいる。同じ時間だけじゃない。同じ空間を共有して、君の隣にいられる。
画面の向こう側でしか紡げなかった関係が、今では馬鹿らしく思えてくる。
――君の〝リアル〟になれている。
そう思うと、どこまででも高く飛んでいけそうな高揚感で、胸がいっぱいになった。
「ナナセぇ……」
「どうしたの、ミヤビ」
「ナナセはさ、本名で呼んでほしくないの……?」
「うん、別にいいかな」
「私のことは本名で呼びたがってたくせに?」
「だって、『ナナセ』はミヤビが付けてくれた名前だから」
「そういうこと?」
「前までは本名で呼んでほしいとか思ってたときもあったけど、それはちがうなって、最近、思ってさ」
「ネットで出会って、今のリアルがあるから?」
「うん。そういうこと。大正解」
「やった」
布団の中で笑う彼女を見ながら、――この時間よ、ずっと続け――だなんて、あのときと同じダサい望みを心の中で吐き出してしまう。
だけど、多分、こんな幸せは長くは続かない。
――それどころか、僕の人生には、きっと、こんな幸せは〝存在しない〟。
「おやすみ、ナナセ……」
「もう1戦は……? しなくていいの……?」
「……」
「ミヤビ?」
「……」
「そっか。おやすみ」
そうだよな。わかってる。
こんなのは全部、〝幻〟だ。
僕の傷心が描いた、
救いようのない〝夏の妄想〟だ。
◆
――ジリジリジリジリジリジリジリジリ――
五月蠅いアラーム。
横転した世界。
朧気な意識。
長い髪が視界を邪魔するその先に、朝の光が差し込む自室があった。ベッドの反対側を無意識に確認してしまい、『やっぱり君はいないんだ』と当たり前のことを考えた。
微かに冷えた、タオルケットにくるまりながら、スマホに手を伸ばしてアラームを切る。そのまま充電ケーブルを抜いて、ロックを解除し、Discordを開く。
見慣れた液晶パネルには、【フレンドに追加】の7文字。1週間前に変わってしまって、それっきり変わることのない静かな画面。――平田のプロフィールページ。
僕はしばらくそれを見つめたあと、静かに起き上がった。
――たとえ、実際に会えていたとしても、あんな夢みたいなこと、起こるはずないしな。
11時24分東京駅発の新幹線に間に合うよう、身支度を整える。
平田からの連絡が途絶えてから、ちょうど1週間後の――2022年8月4日。
僕は、長野県白馬村へと出発した。
◆
彼女からの連絡が途絶えたのは、約束の日の4日前だった。
2022/07/28 00:51
【対面鍛えたいからテスト終わったらアリーナやろ~】
2022/07/28 10:04
【テスト終わってからってとこがえらい笑 もちろんやろー! あと、一緒に鳥貴でテストお疲れ会もしよーね】
2022/07/28 13:51
【一番重い科目終わって勉強モチベ消えたしぬ この終わったは普通に完了したという意味で、出来が悪かったという意味ではないです】
2022/07/28 15:07
【お疲れさまっす でも明日のテストで最後? でしょ?】
「――――:――――」
2022/07/30 09:53
【テストお疲れさま! エペカフェ予約できそう…?】
「――――:――――」
2022/8/01 13:15
【追いメッセするみたいでごめん。今日19時頃新宿駅来れそう…? 一緒に鳥貴行きたいなって。気が乗らなかったら言ってね】
「――――:――――」
あまりにも突然だった。当時の僕にとっては、まるでこの先も一生、本当に、死ぬまでずっと、続いていきそうな、そんなトーク画面だったのに。
2022年7月28日、Discordからのメッセージが途絶えた。アカウントがブロックされていた。PS4を立ち上げると、フレンドが解除されていた。僕が初めて平田に出会ったゲーム友達募集アプリ『Gamee』のアカウントが削除されていた。
僕に〝恋〟ができていたのは、その日が最後だった。
――なんかもう、どうでもいいや。
全部、なにもかもを投げ出したくなって、フラッと外に出て、一人で中華を食べて、酒を飲んで、夜の大学病院を訪れて、ただベンチに座っていた。どうしようもないくらいに救いようがなくて、そんな感覚すら今では愛おしくて、その感覚に酔えている自分がどうしても羨ましくて、だけど、当時の僕は本当に生きる希望を見失っていて。これまで積み重ねてきたもの全てが崩れる音がした。逃げられない現実を知って、激しく絶望した。
そして、変わった。もう、期待しなくなった。
その「大好き」に意味がないことを、ようやく知った。僕の「好き」は届かないことを知った。届いたとしても拒絶されることを知った。
いつだって期待して、いつも勘違いしていた。だけど、諦めなかった。わかっていた、心の底では絶対に。この願いが、この想いが、叶うはずのないことを。
理解はしていた。だけど、それでも、それでいても尚、諦めることはしなかった。諦めなければ、報われると信じていた。9年前のあの日、初恋の君に拒絶された、あの日から、ずっと。ずっとずっとずっと――、信じていた。
――これまで好きになってきた、彼女たちの姿が脳裏を過る。
どんなに酷いフラれ方をしても尚、誰かを好きでいたいと強く願っていた。いくらフラれたって、何度でも人を好きになれる自分を、信じていた。だけどもう、期待しない。勘違いもしない。願いもしない。信じもしない。違う、そうじゃない。しないのではなく、〝できない〟のだ。
――これが『最後の希望』だと手を伸ばした。それでも、彼女は、平田は、消えた。
だから、期待できない。勘違いできない。願うことができない。信じることができない。
変わった僕が、変わった僕を失って、何者でもなくなった瞬間だった。
僕には、なにも、できない。だからもう、僕には〝恋〟ができない。仮に今後、彼女ができたとしても、その人を好きになったとしても、それで結婚して幸せな家庭を築き上げたとしても、それを〝恋〟とは呼べない。〝恋〟だなんて、呼ばせはしない。そう決めた。
――これが僕の、――〝失恋〟だった。
◆
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