第2話

翌日も僕の心は浮かれたままだった。


昨日のひかりの笑顔がリフレインする。

あのメロンパンはちゃんと食べてくれただろうか。

今日の放課後は何を話そうか。


そんなことばかり考えて授業の内容なんてまったく頭に入ってこない。

ああ早く放課後になれと時計ばかり見ていた。


そして待ちに待ったチャイムが鳴る。


僕は昨日と同じように、いや昨日以上の速さで廊下を駆け抜けた。

特別棟の三階、一番奥の美術室へ。


僕の足取りは雲のように軽い。

鼻歌さえ口ずさんでしまいそうなほどだ。


美術室の前に着き、僕は一つ深呼吸をする。

逸る気持ちを落ち着かせ、平静を装う。


よし、と心の中で呟いてから、そっと引き戸に手をかけた。


「ひかり、いるかー?」


ギィ、といういつもの音。

でも、今日は中からの返事がなかった。


いつもなら「……また来たの」という呆れたような声が聞こえるはずなのに。


不思議に思いながら中を覗き込むと、信じられない光景が広がっていた。


ひかりが床に座り込んでいる。


イーゼルは倒れ、パレットや絵筆が床に散らばっていた。

何本もの絵の具チューブが無残に転がり、色とりどりの染みを作っている。


そしてなにより、ひかりの肩が小刻みに震えているのが見えた。


「ひかり!」


僕はカバンを放り出して駆け寄る。


「どうしたんだよ、これ!誰かにやられたのか!?」


僕の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。

その顔を見て、僕は息を呑んだ。


目は真っ赤に腫れ上がり、頬は涙の跡で濡れている。

唇は真っ青で、血の気が引いていた。

昨日見た、あの花のような笑顔の面影はどこにもない。


「……かいと、くん」


か細い声で僕の名前を呼ぶ。


「何があったんだ。言えよ、ひかり」


僕は彼女の肩に手を置いた。

華奢な肩は、驚くほど冷たい。


彼女は震える指で、床に散らばった一枚のパレットを指差した。


そこには、何十もの色が混ぜ合わされた跡があった。

しかし、どれも濁った汚い色になるだけで、彼女が望む色は一つも生まれていないようだった。


「作れない……」


ひかりは、絞り出すように言った。


「作れないの……どうしても」


「作るって……色をか?」


ひかりは小さく頷く。


「昨日……あなたと虹を見たから」


「虹……?」


「あなたと話せて、嬉しかったから。メロンパン、美味しかったから。ありがとうって、心から思ったから」


彼女の言葉の意味が、僕にはまったく理解できなかった。

虹を見たこと。僕と話したこと。

それが、どうして彼女をこんなに苦しめているんだ。


「だから……消えちゃったの」


ひかりの声は、絶望の色に染まっていた。


「私の、一番大切な色が」


彼女はよろよろと立ち上がると、壁際に立てかけてあった一枚の古いキャンバスを手に取った。

それは、穏やかな海を描いた絵だった。


どこまでも広がる水平線。白い砂浜。

そして、空と海を染める、深く、どこまでも優しい青色。


「これは、私がおばあちゃんに教わって、初めて描いた海の絵」


ひかりは、愛おしそうにその絵を撫でた。


「この青色をね、おばあちゃんは『思い出の青』って呼んでた。どんな悲しいことがあっても、この色を見れば、楽しかった時間を思い出せる魔法の青だって」


僕は、何も言えずにその絵を見つめる。

確かに、その青は不思議な色だった。

ただの青じゃない。温かくて、懐かしくて、見ているだけで涙が出そうになる。


「私ね、感情性記憶転移っていう、病気なの」


ひかりは、ついに打ち明けた。

僕の知らない、重い響きを持つ言葉だった。


「新しい、強い感情を経験すると……嬉しかったり、楽しかったり、悲しかったりすると、眠ってる間に、過去の記憶が一つ、ランダムに消えちゃう病気」


僕は、自分の耳を疑った。

記憶が、消える?


「昨日、あなたと見た虹は、本当に綺麗だった。あなたと話せた時間は、本当に楽しかった。私にとって、それはすごく、すごく強い『喜び』の感情だったの」


彼女の瞳から、また大粒の涙がこぼれ落ちる。


「そのせいで、私は忘れてしまった。大好きだったおばあちゃんの笑顔を。私の手を握って、絵の描き方を教えてくれた、あの温かい手の感触を」


そして、彼女は嗚咽を漏らした。


「一番、忘れたくなかった、『思い出の青』の作り方を……!」


頭を殴られたような衝撃だった。

全身の血が、急速に引いていくのがわかった。


そういうことだったのか。


昨日、彼女が言った「私と一緒にいても、あなたを不幸にするだけだから」という言葉。

あれは、僕を拒絶したんじゃない。


僕を、そして自分自身を守るための、必死の警告だったんだ。


僕が彼女を笑顔にすればするほど。

僕が彼女と幸せな時間を過ごせば過ごすほど。


彼女の中から、大切な何かが奪われていく。


僕が良かれと思ってやっていたことは、すべて彼女を傷つける行為だった。

僕は、なんて愚かで、無神経だったんだろう。


「ごめん……」


やっと絞り出せたのは、そんなありきたりな言葉だけだった。


「俺のせいで……俺が、無理やり……」


ひかりは、静かに首を横に振った。


「あなたのせいじゃない。私が、弱かったから。あなたといると、嬉しくなっちゃうのを、止められなかったから」


そう言って、彼女は自嘲するように笑った。

その笑顔は、どんな悲しい顔よりも、僕の胸を締め付けた。


美術室に、重い沈黙が満ちる。

窓の外からは、相変わらず運動部の声が聞こえてくる。

その明るい声が、今はひどく遠い世界のものに感じられた。


僕のせいだ。

僕が、彼女の宝物を奪ったんだ。


罪悪感と無力感で、押し潰されそうになる。

今すぐここから逃げ出してしまいたい。


でも。


ここで逃げたら、僕はただの臆病者だ。

彼女を一人にして、絶望の縁に立たせたまま、自分だけ逃げるなんて絶対にできない。


僕は、固く拳を握りしめた。


そして、涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を、真っ直ぐに見つめる。


「ひかり」


僕の声は、自分でも驚くほど、静かだった。


「なら、俺が憶えておく」


「……え?」


ひかりが、驚いたように顔を上げる。


「ひかりが忘れてしまったこと、全部。俺が代わりに憶えておく」


僕は、彼女の前にしゃがみこみ、視線を合わせた。


「おばあさんのことも、その『思い出の青』のことも、今は思い出せないかもしれない。でも、いつか思い出せるかもしれないだろ?だから、それまでは、俺が全部聞いて、憶えておく」


僕は、床に散らばったスケッチブックを拾い上げた。

そこには、昨日描いたばかりの、あの美しい虹のスケッチがあった。


「昨日、ひかりが虹を見て、きれいだって言ったこと。俺は憶えてる。ひかりが笑って、メロンパンを美味しいって言ってくれたこと。俺は、絶対に忘れない」


震える彼女の手に、僕はスケッチブックを握らせる。


「だから、描くことをやめるな。俺が、ひかりの記憶になる」


「……!」


ひかりの瞳が、大きく見開かれる。

信じられないものを見るような、そんな目だった。


「俺が、ひかりの外部記憶装置になってやる。ひかりが忘れたことは、何度だって俺が話してやる。ひかりが失くした色は、また二人で一緒に探してやる」


だから。


「だから、泣くなよ。ひかり」


僕がそう言うと、彼女の瞳から、せきを切ったように涙が溢れ出した。

さっきまでの絶望の涙じゃない。

もっと、温かい何かが混じったような、そんな涙だった。


彼女は、声を殺して泣き続けた。

僕は、ただ黙って、その隣に座っていた。


夕暮れの美術室。

床に散らばった、鮮やかな絵の具の色。

それはまるで、彼女が失ってしまった、記憶のかけらのように見えた。


ここから、僕たちの本当の戦いが始まる。

美しく、そして残酷な運命との、長い長い戦いが。


この時の僕は、まだその途方もなさを理解していなかった。

ただ、彼女の涙を止めたい。彼女に笑っていてほしい。

その一心だけが、僕を突き動かしていた。

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