私の仕事は、竜を弔うこと。――たとえ、貴方に剣を向けられても。
☆ほしい
第1話
空と大地の境界が乳色の霧に溶けていくのを、私はただ見上げていた。
ここは人界の頂。
万年雪を冠する「竜の高峰」。
空気を吸い込むだけで肺が凍てつき、あらゆる生命を拒絶する絶対的な静寂が、この世界を支配している。
しかし、その静寂は今、私という侵入者によって破られようとしていた。
私は険しい岩肌を登っていた。
身に纏っているのは、墨よりも深い黒の外套。
風をはらんでこれが揺れるたび、内側に縫い付けられた銀糸の刺繍が、星のように瞬いては消える。
私の名はリーナ。
「竜葬司(りゅうそうし)」という、唯一無二の職業に就いている。
神聖なる竜の死を看取り、その魂を安らかに天へ送るための儀式を執り行う。
それが私の務めであり、世界で最も孤独な仕事だ。
数日前、私の元に一通の書簡が届いた。
差出人は、この地の主である古竜イグニス。
千年の寿命を終えようとする、現存する最後の古竜からの、最後の召喚状だった。
私は慣れた足取りで最後の岩棚を乗り越え、ついに頂上へとたどり着いた。
そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
巨大なカルデラのような窪地。
その中央に、山と見紛うほどの巨体が横たわっている。
陽光を浴びて鈍く輝く鱗は、一枚一枚が屈強な戦士の盾ほどもあるだろうか。
閉じられた瞼は丘のように盛り上がり、天を突く角は、永い歳月を物語るかのように複雑な模様を刻みつけていた。
古竜イグニス。
伝説そのものが、そこに息づいている。
だが、その呼吸は浅く、弱々しい。
巨体の周囲だけが、吐息の熱で陽炎のように揺らめき、死の気配が濃厚に立ち込めていた。
私は外套のフードを深く被り直し、背負っていた鞄を下ろす。
中には、竜の葬儀に用いるための無数の祭具が納められている。
その鞄の留め具に、私が手をかけた、その時だった。
「――そこを動くな」
鋭く冷たい声が、私の背中に突き刺さった。
振り返ると、そこに一人の青年が立っていた。
年の頃は、私と同じくらいだろうか。
陽に焼けた肌に、猛禽類を思わせる鋭い眼光。
風にそよぐ黒髪は、竜の鱗と同じ色をしていた。
その手には、黒曜石を削り出したかのような、物々しい槍が握られている。
切っ先は、寸分の狂いもなく私の喉元に向けられていた。
「何者だ。どうやってここへ来た」
青年の声には、剥き出しの敵意が満ちていた。
それは、自らの縄張りを侵された獣が発する、威嚇の唸り声に似ている。
私は、動じない。
私の仕事は、常に死と、そして死がもたらす悲しみや怒りと共にある。
このような敵意を向けられることには、もう慣れていた。
「私はリーナ。竜葬司です」
私は静かに、事実だけを告げた。
「イグニス様に呼ばれ、参上しました」
「竜葬司…だと…?」
青年は、その言葉を反芻するように呟き、眉間に深い皺を刻んだ。
その眼に宿る敵意が、憎悪へと変わっていくのを、私はただ黙って見ていた。
「やはり貴様らか。イグニスの命を奪いに来た、死神め」
「違います。私は命を奪う者ではありません。送る者です」
「黙れ!」
青年の怒声が、高峰の空気を震わせた。
「言葉遊びは聞き飽きた! お前たちがやっていることは、ただの解体だろうが! 友の亡骸を切り刻み、骨も鱗も、牙の一本まで持ち去っていく。それが『送る』ことだというのか!」
彼の言葉は、まるで溶岩のように熱く、私の心を焼いた。
誤解だ。しかし、その誤解を生むのもまた、私の仕事の一側面なのだ。
竜葬司の務めは、魂を送るだけではない。
竜の死後、その強大すぎる魔力は肉体に残留する。
放置すれば暴走し、周囲一帯を汚染してしまうのだ。
亡骸を浄化し、その素材を聖なる祭器へと加工し直すことで、竜の力は再び世界へと還っていく。
それは、次代の生命を育むための、厳かな循環の儀式。
だが、それを知らない者にとって、私の行いは冒涜以外の何物でもないのだろう。
「私の名はエル。イグニスの番人だ」
青年――エルは、そう名乗った。
「俺がここにいる限り、貴様のようなハイエナに、友の体は指一本触れさせん」
「番人…。あなたがあの、一族の最後の」
私の脳裏に、古い伝承が蘇る。
竜と共に生き、竜と共に死ぬ。
生涯をかけて竜を守護する、伝説の一族。
まさか、まだ生き残りがいたとは。
「エル、あなたの気持ちは分かります。しかし、私は務めを果たさねばなりません。これは、イグニス様ご自身の望みなのです」
私は懐から召喚状を取り出して見せた。
そこに宿る竜の魔力は、本物であることの何よりの証だ。
エルは一瞬、その書状に目をやるが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「そんなもの、どうとでも偽造できる。それに、今のイグニスに、お前を呼ぶ力など残ってはいない」
彼の言う通りだった。
イグニスの生命の灯火は、今にも消えそうだ。
この召喚状は、おそらく、最後の力を振り絞って送られたものなのだろう。
「帰りなさい。イグニスの最期は、俺一人で看取る」
エルの声は、拒絶の色で塗り固められていた。
槍を握る手に、さらに力がこもる。
交渉の余地はない。それは明らかだった。
私は静かに息を吐いた。
そして、ゆっくりと彼に背を向け、その場に腰を下ろした。
「何をしている!」
エルの戸惑う声が響く。
「待ちます」
私は、背後の彼に顔を向けることなく答えた。
「イグニス様がその時を迎えられるまで。そして、あなたが私の仕事を理解してくださるまで」
「…ふざけるな! 俺が許すと思うのか!」
「いいえ。許しを請うているのではありません。これは私の誓いであり、仕事だからです。竜葬司は、一度受けた依頼を放棄することはありません。たとえ、何があろうとも」
私は鞄から小さな布袋を取り出すと、中から白く清らかな石をいくつか取り出し、自らの周囲に円を描くように並べ始めた。
結界石だ。
外部からの魔力を遮断し、精神を集中させるための、儀式の準備の第一歩。
私の冷静で、揺るぎない態度に、エルは言葉を失ったようだった。
ただ、荒い呼吸だけが聞こえてくる。
彼は、私がただの死肉を漁る盗人ではないことを、その佇まいから感じ始めていたのかもしれない。
だが、長年抱いてきた「竜葬司」への憎悪と、友を失う悲しみが、彼の心を固く閉ざしていた。
「…好きにしろ。だが、一歩でもその円から出て、イグニスに近づいてみろ。その時は、容赦なくこの槍でお前の心臓を貫く」
それだけ言い残すと、エルは背を向け、イグニスが横たわる巨大な洞窟の方へと歩き去っていった。
その背中は、あまりにも孤独で、悲しみに満ちていた。
一人残された私は、結界石を並べ終えると、静かに目を閉じた。
ここから、永い永い対峙が始まる。
死にゆく竜と、その死を拒む番人と、そして、その死を聖なる儀式へと昇華させようとする、私。
凍てつく高峰の上で、私たちの奇妙な共同生活が、静かに幕を開けた。
私は、これから訪れるであろう困難を思い、深く息を吸い込む。
その空気は、やはりどこまでも冷たく、澄み切っていた。
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