第15話
「はい。……連れて行ってください、フィンさん」
私の答えに、フィンさんはこれ以上ないほど優しく微笑んだ。
彼の大きな手が私の頬を包み、その深い蒼色の瞳が、ただまっすぐに私だけを見つめている。
満天の星空の輝きさえ、彼の瞳の光の前では色褪せてしまうかのようだった。
彼は私の手をとり、生まれたばかりの泡珊瑚を大切に握らせてくれる。
とくん、とくん、と脈打つ温かい感触が、手のひらから伝わってきた。
まるで小さな生き物の心臓のようだ。
「行こう、シオリ。俺の故郷へ」
フィンさんに導かれるまま、私は一歩、また一歩と、入り江の奥へと足を進めた。
最初はくるぶしまでだった海水が、やがて膝、腰、そして胸元まで達する。
夜の海の冷たさに一瞬身体がこわばったけれど、フィンさんが握ってくれる手の温もりが、すぐに私を安心させてくれた。
そして、ついに私の頭までが完全に水中に沈んだ、その瞬間だった。
私が手にしていた泡珊瑚が、ぱあっと今までで一番強い光を放ったのだ。
光は私の身体全体を優しく包み込み、特に顔の周りで、しゃぼん玉のような薄い膜を形成する。
目の前に、ほんのりと虹色にきらめく空気の層が生まれた。
「……息が、できる」
驚きのあまり、思わず声が漏れた。
その声は、水中であるにもかかわらず、はっきりと自分の耳に届いた。
不思議なことに、水が鼻や口に入ってくる感覚は一切ない。
目の前の海水は、まるで一枚の透明なガラスの向こうにある景色のように、くっきりと見えている。
これが、泡珊瑚の奇跡。
私の手仕事と、フィンさんの愛が育てた、二人だけの魔法。
「怖くないか?」
フィンさんの声が、不思議と直接、頭の中に響いてきた。
言葉を発しているようには見えないのに、彼の想いが、メロディのように私の中に流れ込んでくる。
これが、海の一族の会話の方法なのかもしれない。
私はぶんぶんと首を横に振って、彼に笑顔を向けた。
「大丈夫。フィンさんが、一緒だから」
私の想いも、彼にちゃんと伝わったようだった。
彼は安心したように頷くと、私の腰にそっと手を回し、身体を支えてくれる。
「じゃあ、しっかり掴まっていて」
次の瞬間、私の身体はふわりと浮き上がった。
フィンさんの美しい尾びれが、一度だけ大きくしなやかに水を打つ。
それだけで、私たちの身体は驚くほどの速さで、海の深い場所へと進み始めた。
重力から解放されたような、不思議な浮遊感。
前世で締め切りに追われていた頃には、想像もできなかったような、究極の自由がそこにはあった。
入り江の底を離れ、私たちはどこまでも蒼い世界へと降りていく。
水面から差し込む月光が、ゆらゆらとカーテンのように揺らめき、幻想的な光の筋を描いていた。
その光の中を、私たちはまるで鳥のように、自由に泳いでいく。
私の周りを、見たこともないような魚の群れが通り過ぎていった。
鱗が金色に輝く魚、提灯のように自ら光を放つ魚、天女の羽衣のように長いひれをなびかせる魚。
陸の世界の色彩とは全く違う、原色の生命力に満ちた光景に、私は完全に心を奪われた。
フィンさんは、時々足を止めては、様々な海の生き物を指さして教えてくれる。
巨大な海亀が、私たちを気にも留めず、悠々と目の前を横切っていく。
岩陰に隠れていたタツノオトシゴのつがいが、恥ずかしそうにこちらを見ていた。
海底に広がる珊瑚礁は、まるで宝石をちりばめたお花の畑のようだ。
それは、フィンさんが毎日見ている、彼の日常の風景。
その当たり前の景色を、今、私が隣で分かち合っている。
その事実が、たまらなく嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
しばらく進むと、景色は一変した。
太陽の光も届かないような深い場所へ来たのだろう。
辺りは完全な闇に包まれたけれど、不思議と恐怖はなかった。
なぜなら、闇に目が慣れるにつれて、世界のもう一つの姿が見えてきたからだ。
海底の岩や、海中を漂うプランクトン、そして巨大な海藻までもが、自らぼんやりとした光を放っているのだ。
青、緑、紫。
無数の小さな光が、まるで夜空の星々のように瞬き、暗い海の底を照らし出している。
ここは、陸とは違う時間が流れ、陸とは違う星空が広がる、もう一つの宇宙だった。
フィンさんは、この世界で生まれ、育ったんだ。
彼が奏でる音楽の、あの深く、どこか切ない響きの意味が、少しだけわかったような気がした。
ふと、フィンさんが私の手を引き、巨大な海藻の森の中へと入っていく。
見上げるほど大きな昆布のような海藻が、天に向かって伸びている。
その森を抜けた先、私たちの目の前に、信じられない光景が広がった。
はるか下方の、深い深い闇の底に、一つの光が見えたのだ。
それは、海中の生物が放つ自然の光とは明らかに違う。
もっと温かく、大きく、そして確かな意志を持った光。
まるで、深い海の底に、もう一つの月が沈んでいるかのようだった。
「あれが……俺の故郷、眠れる光の都『シオラ』だ」
フィンさんの声が、誇らしげに響く。
私たちは、その光を目指して、さらに深く潜っていった。
光が近づくにつれて、巨大な建造物のシルエットが、ゆっくりと姿を現し始める。
天を突くような高い塔、優雅な曲線を描くドーム、そして家々を繋ぐ美しい橋。
そのすべてが、真珠や珊瑚、そして夜光貝といった、海の宝石だけで作られているようだった。
町全体が、それ自体が一つの芸術作品なのだ。
やがて、私たちは都の入り口と思しき、巨大なアーチの前へとたどり着いた。
アーチは白く輝く巨大な珊瑚でできており、表面には何千年もの時を感じさせる、緻密な文様が刻まれている。
アーチの周りでは、色とりどりのイソギンチャクが、門番のように柔らかな光を放っていた。
「おかえりなさい、フィン様」
どこからともなく、複数の優しい声が、同時に頭の中に響いた。
見ると、アーチの陰から、フィンさんと同じように、美しい人間の上半身と、魚の尾びれを持つ者たちが姿を現す。
銀色の髪、金色の髪、緑色の髪。
誰もが、人間離れした美しさを持っていた。
彼らは、フィンさんに対しては敬意のこもった眼差しを向け、そして私に対しては、隠しようのない好奇心に満ちた視線を注いでいる。
フィンさんは、私を安心させるように、腰に回した手に少しだけ力を込めた。
そして、門番たちに毅然と告げる。
「ただいま戻った。こちらはシオリ。俺が愛した、陸のひとだ。……客人として、都へお連れする」
彼の言葉に、門番たちは一瞬息をのんだようだった。
だが、誰も反対の言葉は口にしない。
彼らは深々と頭を下げると、アーチの道を静かに開けてくれた。
アーチをくぐったその先には、私の想像を絶する、あまりにも美しい都の姿が広がっていた。
それは、おとぎ話でさえ見たことのない、魔法と光に満ちた、人魚たちの楽園だった。
私は、ただ言葉を失い、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。
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