転生デザイナー、海辺の感情インク店でまったり恋と人生を再出発させる

☆ほしい

第1話

潮風が運んでくる、どこか懐かしい香り。

それが私の目覚まし時計代わりになった。


カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの灰色の日々を洗い流してくれるかのようだ。


「ん……朝……」


ゆっくりと身体を起こすと、窓の外からカモメたちの陽気な鳴き声が聞こえてくる。


ここは海辺の町、ポート・ルミナ。


私がこの世界で目覚めてから、ちょうど一年が経とうとしていた。


前世の記憶はまるで色褪せた写真のようだ。

グラフィックデザイナーだった私は、モニターの光と鳴り止まない通知音の中で生きていた。


クライアントの要求。

迫り来る締め切り。

終わらない修正作業。


そうして心をすり減らした果てに、あっけなく命の火は消えた。


気がついた時、私はこのシオリという名の女性になっていた。

見知らぬ天井、知らない自分の手。そして窓から見える、どこまでも青い海。


もう二度と。

二度と、あの時間に追われる生活には戻らない。


そう固く誓った私は、この海辺の町で静かなスローライフを営んでいる。


「さて、今日も一日、頑張りすぎないで頑張ろう」


私はベッドから抜け出し、大きく伸びをする。

一階にある私の店「汐風のインク瓶」へ。


階段を降りると、インクの持つ独特の甘くて澄んだ香りがふわりと鼻をくすぐる。


壁一面の棚には、色とりどりの小瓶が並んでいる。

夜明けの空を写したような「暁の色」。

雨上がりの森の匂いがする「若葉の色」。

そして、この店の看板商品である「ルミン・インク」。


私が開発した、この世界だけの特別なインクだ。


ポート・ルミナの近海にだけ生息する、不思議な「ルミン・イカ」。

そのイカが分泌する魔法のような物質を使って、このインクは作られる。


書いた人の感情に呼応して淡く光ったり、色を揺らめかせたりするのだ。


嬉しい気持ちで書いた手紙は、太陽のように暖かく輝く。

悲しい気持ちを綴れば、月光のように静かに青白い光を放つ。


想いを伝えたい人々の間で、このインクは静かな評判を呼んでいた。


店の奥にある作業台へ向かう。

昨日仕込んでおいたルミン・イカの分泌液が、ガラスの器の中で銀色に輝いている。


ここに秘密のレシピで調合した草花の蜜を数滴、垂らす。


ぽちゃん、と軽い音がして銀色の液体はゆっくりと透明に変わっていく。

ここからが私の腕の見せ所。前世で培った色彩の知識が活きる瞬間だ。


今日は、夕焼けの色を作ろう。

燃えるような赤、優しい橙、そして空の青さが溶け合うあの切ないグラデーション。


乳鉢で、乾燥させた夕焼け色の花びらを丁寧にすり潰していく。

サラサラと心地よい音が響く。


焦らない、急がない。

ただ指先の感覚と、素材の声に耳を澄ませる。


これが私の新しい人生。私のスローライフ。


そこに、カラン、とドアベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


振り返ると、彼が立っていた。

フィン。

私の店の一番の常連客。


今日も彼は少しだけ湿り気を帯びた空気をまとって、静かにそこにいた。


銀色の髪はまるで月光をそのまま紡いだかのよう。

深い海の底の色を映したような、蒼い瞳。

言葉数は少なく、いつもミステリアスな雰囲気を漂わせている。


「こんにちは、フィンさん。今日はいいお天気ですね」


「……ああ」


短く頷くと、彼はゆっくりと店内を見渡した。

その視線はいつもインクの小瓶たちに向けられる。

まるで一つ一つの色に込められた物語を、読み解いているかのようだ。


彼は日に数時間しかこの町には姿を現さない。

決まって潮が満ち始める前の、午後のひとときだけ。

そしていつも私のインクを買い求め、すぐに帰っていく。


何に使うのか一度だけ尋ねたことがある。

彼はただ静かに「音楽を、記している」とだけ答えた。


彼が使うのは決まって「月光」と名付けたルミン・インク。

静かな夜の海の色をした、青いインクだ。


きっと彼の紡ぐ音楽も、彼の瞳のように深く静かなのだろう。


「いつもの、月光を」


「はい、ただいま」


私は棚から一つの小瓶を手に取り、柔らかな布で優しく磨く。

カウンター越しにインクの小瓶を手渡す。


その時、彼の指先がほんの少しだけ私の指に触れた。

ひんやりとしていて、でも不思議と嫌な感じはしない。

むしろその冷たさが、火照った私の頬には心地よかった。


「ありがとう」


彼は小瓶を大事そうに懐にしまうと、銀貨を数枚カウンターに置いた。

そして来た時と同じように、音もなく店を出ていく。


カラン、と寂しげな音を残して。


私は彼の去っていったドアをしばらく見つめていた。

心臓が少しだけ速く脈打っていることに気づく。


彼の瞳の蒼。指先の冷たさ。纏う汐の香り。

そのすべてが私の穏やかな日常に、小さな波紋を広げていく。


フィン。彼は何者なのだろう。

なぜいつも決まった時間にしか来ないのだろう。

なぜ彼の周りには、いつも海の匂いがするのだろう。


謎は多いけれど、その謎が不思議と私を惹きつけていた。


私はカウンターに残された銀貨をそっと手に取った。

彼の指先と同じ、ひんやりとした感触。


窓の外では太陽が少しずつ西に傾き始めている。

そろそろルミン・インクの仕上げをしなければ。


今日の夕焼けはどんな色に染まるだろうか。


私は作業台に戻り、再び乳鉢を手に取った。

すり潰した花びらの粉末を、透明になった液体にそっと混ぜていく。


私の心がさっきの小さなときめきに染まっているせいだろうか。

インクはいつもより少しだけ、赤みを増しているように見えた。


それは燃えるような夕焼けの色。

そして恋の始まりを予感させる、優しい色だった。


ルミン・インクは持ち主の感情を映し出す。

ならば作り手である私の感情も、きっとそこに宿るはずだ。


今日のこのインクは誰の元へ届くのだろう。

どんな想いを、どんな物語を、その光で彩るのだろう。


そう考えると胸が温かくなる。


過労死した私が手に入れた、このささやかでかけがえのない毎日。

色を失くしたと思っていた私の世界は、このポート・ルミナで再び鮮やかに色づき始めた。


それはこの魔法のインクのおかげ。

そして、あのミステリアスな人魚のような彼のおかげ、かもしれない。


私は出来上がったばかりのインクを小瓶に詰め、ラベルを貼った。


「今日の夕焼け」


小さなときめきを込めて、そう名前をつけた。

きっと素敵な恋の便りを運んでくれるに違いない。


店の窓から見える海は、穏やかにきらめいている。

遠くで汽笛が鳴った。


この町の時間はゆっくりと優しく流れていく。

私の新しい人生と、始まったばかりの淡い想いを乗せて。


締め切りも終わらない修正もない、この世界で。

私は感情のインクを作り続ける。


いつか私のインクが、フィンさんの紡ぐ音楽にも彩りを添える日が来るだろうか。


そんなことを考えながら、私は店の片付けを始めた。

一日が静かに終わっていく。


でも明日への期待が、胸の中に確かにあった。

前世では感じることのなかった、穏やかで確かな希望。


汐風が、また新しい一日を運んでくると囁いているようだった。

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