体育祭、陰と陽の分水嶺 7
悖徳高校、体育祭。午後の部は予定通り、何事もなく続行された。
まぁ、著名人が急死しても別に世界は止まらないしな。当然だろう。
それでも俺の世界は停止していた。正直、もう体育祭を純粋に楽しめる気分じゃない。
(はぁ……)
本来はエロかっこいいと感じるチアリーディング部の統制が取れたアクロバティックな応援も、「ああ、すごいな」と冷めた感想しか出てこなかった。
春乃先輩も元チア部らしいが、先輩ならあの中でも目立てると思う。色んな意味で。
あと印象的だったのは全学年から選出される、女子騎馬戦だろうか。
三年を差し置いて白組大将の座に就いた春乃先輩と、紅組の遊撃隊として無双していた飾森(馬に柚本)の大怪獣バトルは、文字通り大地を揺るがす熱戦だった。
紅の大将が落ちたので勝敗こそ着かなかったものの、ふたりが互角なのは間違いない。
しかしそんなクラスメイトの活躍を差し引いても現状、D組の雰囲気は最悪である。
未だ小夏が保健室から戻らないのと、噂の相乗効果でどうにもならないのだ。
まぁ、俺の不機嫌さである程度は察した連中も多かったのだろう。
現に右隣に座る前園さんも、気まずさで今にも死にそうな顔をしていた。
……いや、彼女の場合は大縄跳びで足を引っ張りまくったせいかもしれんが。
と、そうこうする間に二年の玉入れが決着へ近づく。つまり、
(そろそろ部活対抗リレーか……)
会長を含めて三人しかいない恋愛同好会も参加の権利はあった。
まぁ、大半の部は九人で走るからひとり三周も走らされるんだけども。
移動にはまだ少し早かったが、俺は席を離れて指定された場所に向かう。
「――ま、事情は概ね理解したわ」
やがて玉入れが終わり、顔を合わせた春乃先輩の開口一番はそれだった。
たぶん思考盗聴なんだろうが、今はツッコむ元気すらない。
「とりあえず、
先輩もそれを分かってか、必要以上に絡んではこなかった。
……対処か。確かに今回はたまたま俺が助けに入れたが、次もそうなる保証はない。
春乃先輩の、ふたりの距離を縮める要因は排除したいという考えは理解できる。
「ん?」
ふと辺りが慌ただしくなったのを感じ、そっちに視線を向けた。
それは、家庭科部。小夏が所属する部活の女子達によるものだったらしい。
(あぁ、そうか。小夏がいねぇから代わりに誰が走るとか――)
直後。俺は思わず言葉を失った。
開けた視界の先。戸惑いを露わにする女子の輪の中。
そこには真新しい体操服に着替え、髪型を短く整えた小夏が立っていたのだ。
(……あいつ、なんで。保健室で切ってもらったのか?)
思わず声が出そうになり、すんでのところでどうにか言葉を呑み込む。
事情を知らない人間からすれば、あくまで急に髪を切ってきた女にしか見えない。
むしろ必要以上に騒ぎ立てることこそ、小夏の迷惑になるのは明白だった。
それでも突拍子のなさに変わりはないので、部員に困惑するなというのが無理な話。
だから俺が出すべき助け舟は、そういうタイプだと教えてあげることだ。
「おいおい、小夏お前。まじで髪切ってきちゃったのっ!?」
空気の読めない男感がややアレな気もしたが、とりあえず強引に輪の中へ飛び込む。
当然、女子しかいない家庭科部の反応は俺のメンタルをごりごり削った。
(い、痛ぇ……〝は? 何こいつ急に〟みたいな視線。やっぱ辛ぇよ……)
俺を不思議そうに見た小夏も、やや遅れて意図を理解したらしい。そういう顔だ。
普段はアホでも大事な場面では基本、冴えてることが多いのは小夏らしい。
「えへへ、切ってきちゃった。善は急げだからねっ!」
「まじで勢いだけで生きてるよな、お前……あと髪減らしても足速くならないからな」
「えっ!?」
この驚きは演技なのか素なのか、真偽不明である。
「皆さんもすみません、こいつ幼稚園の頃からずっと突拍子もないこと繰り返して周りに驚かれがちなので……変だなと思っても大目に見てやってください」
家庭科部の皆さんに幼馴染アピールをしつつ、頭を下げた。
それを見た彼女たちは困ったように互いを見合っている、と思う。
「お、大げさだよ。そんなに変なことしてないよ私、もぅ!」
「だいぶ大胆なんじゃないかなぁ。うん」
「えーっ、そんなことないですよぉ!」
ほとんど全否定されて小夏が凹むと、家庭科部を穏やかな空気が包み始めた。
こんなところか。小夏が昔から変わってると分かれば、上手くやっていけるだろう。
「ま、とにかく。怪我しない程度に頑張れよ」
「ふふんっ。家庭科部だって一位を狙いにいくんだよ。ですよね、
「え? ……いやぁ、うちら非力な乙女集団だし。どうだろうねぇ、うん」
「ふふ。そこは嘘でも一位を取るって言わなきゃ。めっ、ですわ。しーちゃん」
「そーですよ。あ、もうこうなったらノリと勢いです! 組みましょ、円陣っ!」
ひとりのそんな提案に小夏が目を輝かせ、彼女達は流れで円を作っていく。
もう世界から俺は跡形もなく消滅してしまったようだった。悲しいね。
小夏だけがちらりと俺を見て、「ありがとう」とささやいてくれる。嬉しいね。
……というか、家庭科部にもしーちゃんがいるのか。この学校多いな、しーちゃん。
『さぁ、体育祭もいよいよ終盤! 同好会も含めた部活対抗リレーの開幕です! 各出場選手は位置につき、他の生徒の皆々様も張り切って応援して参りましょう!』
無事、小夏の手伝いを終えて元の場所へ戻ると、放送部の声が気持ちよく響く。
それから俺は律儀に準備運動をするふたりに向け、自分へ言い聞かせるように言った。
「出番らしい出番も最後ですし、やるからには勝ちましょう。会長、先輩」
「うむ。私も微力なら最善を尽くそう」
「ま、あたしが三回走って負けるわけがないけどね」
自信満々に偉そうな態度で胸を張る、春乃先輩。まぁ、平常運転だ。
実際、先輩の超人的な身体能力をもってすれば負けはないのかもしれない。
そういう部分もいまいちやる気が出ない理由のひとつでもある。
で、事実。始まった部活対抗リレーは、春乃先輩の宣言通りとなりつつあった。
『――速い速い、恋愛同好会が……というより、久住春乃が速すぎるっ! 言動も含めて同じ人間とは思えません。もちろん好意的な意味ですが、とにかく足が速い! 全国大会でも好成績を残す陸上部員が半周近くの差をつけられるのは、驚く以外ありません!』
放送が嬉々として言うように、リレーは春乃先輩無双そのものだった。
俺と冬毬会長も平均よりは優れているが、先輩のそれは常軌を逸している。
走る順番としては一巡目のみ先輩、会長、俺の順で走り、以降は会長と先輩のとこだけ入れ替えるというもの。スタートダッシュで
アンカーが俺なのは、最後に彼氏に抱き着く彼女を演出したいとかそんな感じだろう。
全ては順調に事を運んでいた。六人目の俺と小夏が走る、その時までは。
「がんばってね、しーちゃん」
「おう」
これでリレー中、二度目となる小夏からの応援だった。
俺は会長のバトンを受け取り、声に押されるように勢いよく駆け出す。
そうして、走りながら改めて思う。マラソンって変態向けの競技なんじゃないか、と。
サッカーをする過程で走る必要があるのはまだ理解できるが、走るために走ってるのはなんかおかしい。だからたぶん、マラソンは目的ではなく手段なのだろう。
と、そんなどうでもいいことを考えるうち、もう四分の三ほどを消化していた。
しかし問題は遥か後方。団子になった足が遅い集団の中で起こってしまう。
『あぁっ! コーナーの砂利に足を取られたか、書道部っ! そのまま距離の近い後続が次々と玉突き事故に……だ、大丈夫でしょうかっ!? 私は怪我だけが心配です』
「――――ッ!」
見える範囲に小夏の姿はなかった。巻き込まれたのか? なんでそんな運がないんだ!
周囲が状況を見守る中、立ち上がった生徒たちがゆっくりと再び走り出していく。
どうやら大半が無事だったらしい……ただひとり、小夏だけを除いて。
『……こ、これは足首を痛めてしまったんでしょうか?』
(ふざけんなッ、なんでこういう時に限って俺は、こんなとこ走ってんだよっ!?)
出血こそないようだったが、それでも身も心も痛めつけられたあいつを放って置くことなんて俺にはできない。たとえ春乃先輩に止められても、だ。
今すぐ小夏のもとへ飛んで行きたい。だが、どれだけ焦りの感情を募らせてもいきなり足は速くならないし、伸ばした腕が届くことはなかった。
だからそれ故に。俺たちは……見たくもない現実を観測する羽目になったのだろう。
「…………」
小夏に誰よりも早く駆け寄ったのは、渡会先輩だった。
先輩は彼氏みたいに小夏をおぶり、指笛の煽りを受けながらトラックの外に出る。
また世界から音が消えていく。色が消えていく。
辛うじて保たれていた輪郭が消え、幻想は硝子みたいに砕けていく。
テニス部は茶化しつつもすでに代走ムードで、照れくさそうな表情を浮かべる幼馴染はまんざらでもないように見えなくもなかった。もう涙すら出ない。
呆然と見つめることしか、俺にはできなかった。
ふたりの間に、入り込む隙なんてどこにも見当たらなかった。
途中、何度か小夏と目が合ったような気がしたが、たぶん目の錯覚だ。幻覚だ。
仮にそうだとして、あいつの目に俺はどう映っているのだろう。
そんなのやっぱり、決まってる。自分のピンチを助けてくれる、ただの……幼馴染だ。
「――どうした真田、君の順番だぞ。疲労もあるだろうが、これで最後だ」
いつの間にか走り終わっていた会長に声をかけられて、俺はスタートラインに立つ。
どうやらアンカーだったらしい渡会先輩は、当然まだ戻ってきていない。
(本当だったら勝負できたのか……勝負、勝負か……)
勝負。その二文字が、壊れた脳みそを強く震わせるような感覚があった。
このまま走れば、無難に一位でゴールできる。それは揺らぐことのない事実。
でも、それでいいのか。いいや、それがいいのか? 俺は。満足なのか……?
『さぁ、勝負の行方が今、アンカーに託されてようとしていますっ! 何事もなければ、恋愛同好会の優勝は確実でしょうが、二位以下はまだ未知数! 期待しましょう!』
(満足なんか、できねぇよ……)
ふと顔を上げると、凄まじい速度で周回してくる春乃先輩と視線がぶつかった。
一瞬、驚いたような素振りを見せたが、目だけで意図は伝わったらしい。
「……はぁ、もう好きにしなさい。男の子」
「む?」
春乃先輩が呆れ混じりに理解する一方、会長は理由に見当もつかない様子だった。
(ごめんなさい、冬毬会長)
俺はリードを一切取らず、足を止めて先輩からアンカーのバトンを受ける。
そして、圧倒的先頭を行く中で――走り出すことをしなかった。
『おぉっと、これはどうした恋愛同好会! どうした真田信二郎!』
案の定、実況席と呼応するようにグラウンド全体が騒々しさを増していく。
ブーイングもあるにはあったが、主に私的な勝敗が掛かっている教師ふたりだけだ。
「なる。そういうことね」
「いいぜ、乗った! ヤローばっか目立つのは癪だかんな」
「これ、逃げたら変なレッテル貼られるやつじゃん」
俺の意図を察知した他の部活もだいぶノリがいいようで、次々と白線で停止する。
最終的には全部活が横一列となり、アンカーに勝敗が委ねられる形となった。
(……べつに。かけっこで勝ったからどうにかなるわけじゃない。けど、俺と渡会先輩が勝負できる瞬間って学校生活の中だと、たぶん本当に数えるほどしかない)
さらにそれは、決して対等ではないものが大半だろう。
そもそも人生において、対等な勝負ができる機会なんてほぼないはずだ。
年齢、コネ、経験、環境、遺伝子に基づく能力、肉体的・身体的調子。何でもいいが、どれかしら他人と〝差〟があることは、人生という戦いを続ける上で避けられない。
(それでも、俺は――――)
程なくして、そのまま保健室に居続けてもおかしくない渡会先輩が戻ってきた。
誰かが呼びに行ったのだろうか。でなければ、少し不自然な気がしないでもない。
……まぁ、今はいい。今だけは。勝負が流れないのならそれで。望むところだ。
直後、グラウンド全体がまるで英雄凱旋のような盛り上がりを見せる。
隣にいた陸上部も「空気読んだほうがいいよな……」と思わずぼやくほどだ。
「待たせてごめんなさい。皆、ありがとう。先輩たちもありがとうございます」
渡会先輩――否。渡会が皆に一瞥し、列に加わる。
同時に体育祭実行委員の女子が改めてスターターピストルを構えた。
「位置について、よーい」
張り詰めた空気の中。号砲が鳴り渡り、アンカーが一斉に大地を蹴って走り出す。
俺と渡会が頭ひとつ抜け出し、そこに運動部が続く理想的なスタートダッシュ。
深く考えずとも分かる。これは良くも悪くも、誰もが空気を読んでくれた結果だ。
背中から感じる視線で痛いほど伝わってくる。お前が始めたことだろ、と。
「「渡会くん頑張れーっ!」」
男女問わず、三年からの声援が耳に届く。誇張抜きで絶大な人望があるらしい。
この人がどんな学校生活を送ってきたか、俺は知らない。でもたった一年でこれだけの支持を得るなんて俺には無理だ。そういう意味で真に対等なのは会長だけだろう。
圧倒的アウェイ。きっと誰もが望んでいる、渡会に勝って欲しいと。
俺はせいぜい
こんな空気の中で俺を見てるのは余程の変わり者か、ただの逆張り人間でしかない。
「……本当に。聞いていた通りのひとなんだね、きみは」
「えっ?」
不意の言葉。その一瞬の気の緩みをついて、渡会先輩がさらに加速する。
どうにか食らいついていく。疑問は後回しだ。きっと答えは返ってこない。
今は集中だ。勝つために。全細胞を研ぎ澄ますべき時なんだ。
渡会、お前のせいで俺がこんな目に……なんて気持ちがないと言えばたぶん嘘になる。
確かに渡会がいなければ、俺はきっと自分の気持ちに気付けなかった。
だとしてもそれは譲る理由にはならない。勝ちたい。負けたままでなんかいたくない。
学力だとたぶん勝てない。恋愛は先手を打たれ、容姿もコミュ力も遥かに劣っている。
ならせめて運動だけでも。たった一つでもいい。俺は……俺は、あの人に勝ちたいッ!
「あぁっ! 負けた!」
落胆の声が鼓膜を震わす。自分でもいつゴールしたのかよく分からなかった。
それでもそんな声が聞こえるのだから。つまり、俺は……。
思わず腰のあたりで拳を強く握る。誰も望んでいなくても知るもんか。
この勝敗の価値が理解されなくとも構わない。とにかく俺は、渡会にか――
「そこは負けとけよ。人として」
リレーが終わった直後。出場者が作る人ごみの中で、すれ違い様に誰かがささやいた。
分かっていたことだ。初めから分かってた、ことじゃないか…………。
「いい勝負だった。ありがとう」
「……いえ。こちらこそ、です」
聞こえていたのだろうか。これ以上ないタイミングで渡会先輩に握手を求められる。
「皆も応援ありがとう!」
それからひるがえり、頭を下げた。大半の生徒が彼の健闘に称賛を送っている。
自分で勝負を望んでおきながら、改めて思う……思ってしまう。
やっぱりこんな勝負、いくら勝ったところで何の意味もないんだって。
自分に向けたものではない視線が、言葉が。どうしようもないほど虚しく心に響く。
「……ばかね。ほんとばか」
春乃先輩が頭をわしゃわしゃと触って軽く抱きしめてきた。うっとうしい。でも先輩の言う通りだ。
馬鹿なことをした。そう思う。こうして俺の、俺たちの体育祭は……終わった。
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