第30話 出立前夜(前編)

 それからしばらくして、身支度を整えたアレクシスはエリスの部屋を訪れた。

 扉をノックし、エリスの返事を待って扉を開ける。


 すると侍女たちは既に退室した後のようで、中にいるのはエリスだけだった。


 その状況に、アレクシスは再び『やはりこれはそういう誘いなのか?』と勘ぐったが、部屋の奥のテーブルの前で、こちらに背を向けて立つエリスの姿を見て、どうもそうではなさそうだと察知する。


「……エリス?」

(なぜ、こちらを向かないんだ?)


 不審に思ったアレクシスは、慎重にエリスに近づいていく。

 するとあと少しというところで、ようやくエリスが振り向いた。


 緊張したように頬を赤く染めながら、「これを殿下にお渡ししたくて」と、胸の前に抱えた何かを、おずおずと差し出してくる。


 それを見るやいなや、アレクシスは目を見張った。


「これは……俺のシャツか?」


 ――そう、それはアレクシスが毎日のように着ている黒のワイシャツだった。


 シャツを見たアレクシスは、

(なぜ俺のシャツがエリスの部屋に? メイドが洗濯物を間違えて届けたのか?)

 と混乱したが、すぐにそうではないことに気付く。


 目の前のシャツはどう見ても新品。

 その上、襟と袖によく見知った、けれど見覚えのないアラベスク模様の刺繍が入っているのだから。


(つまりこれは……、エリスから……俺、への……?)


「~~ッ」


 刹那、アレクシスは驚きのあまり言葉を失った。

 けれど、どうにかエリスの手からシャツを受け取り、銀糸で施された見事な刺繍を、食い入るように見つめる。


「……君が、刺したのか? 俺の……為に?」

「はい。わたくしが刺しました。明日からの演習で、お召しになっていただきたくて」

「…………」

「お気に召しませんでしたか?」

「…………」

「あの……殿下……?」


 いったいどうしたというのだろう。


 急に黙りこくってしまったアレクシスに、エリスは色々と呼び掛けてみる。


 けれどアレクシスは、シャツの襟元をじっと見つめたまま微動だにしない。

 エリスが話しかけても、うんともすんとも言わないのだ。


 そのためエリスは、贈り物に失敗したのではと強い不安を覚え始めたが、何のことはない。

 アレクシスは感動のあまり、軽く意識を飛ばしているだけであった。


(まさか、俺がこの刺繍を手にする日が来ようとは――)

 と。

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