第9話 セドリックの追憶(後編)
◆◆◆
それは夏の暑い日の、日暮れ頃。
王都の端に位置する教会の孤児院――その中の病人用の隔離された小部屋の硬いベッドの上で、セドリックは今日も伏せっていた。
夏風邪を拗らせてしまっていたからだ。
最初は少し熱っぽいくらいのものだったのだが、アレクシスに心配をかけまいと我慢していたら、三日前にとうとう倒れてしまい、治る気配を見せないまま
「
セドリックが休んでいると、頭上から不意に声がした。
瞼を開けると、そこにはベッド脇の丸椅子に腰かけて、自分を心配そうに見下ろすアレクシスの姿がある。
「……殿下」
セドリックが呟くと、アレクシスは小さく眉を寄せた。
「お前、いつまで俺をそう呼ぶつもりだ? ここでの俺は『殿下』じゃない。『アレックス』だ」
「……ああ、そうでした。つい……」
「まぁ、俺も咄嗟の時は『セドリック』と呼んでしまうけどな。――それで、リック。気分はどうだ? 起き上がれるか?」
「はい、大丈夫です」
アレクシスに問われ、セドリックは笑みを取り繕う。
実際は最悪な気分だったが、アレクシスにこれ以上心配をかけるわけにはいかなかった。
身体を起こしたセドリックがベッド脇の四角いテーブルに目をやると、粉薬と水の入ったコップが用意されている。
「ちゃんと全部呑み干すんだぞ」
「わかってますよ。子供じゃないんですから」
――セドリックは、この薬に効き目がないとわかっていた。
三日前から朝夕飲み続けているが、症状は改善するどころか悪化するばかりだからだ。
けれどもし薬を拒否すれば、アレクシスに要らぬ心配をかけてしまうだろう。
それだけは、避けたかった。
セドリックは、込み上げてくる吐き気に耐えながら、粉薬を一気に水で飲み下す。
するとアレクシスは、セドリックが薬を飲み干したのを確認し、安堵の息を吐いた。
「お前、そろそろ何か食べられそうか? ここ数日、水しか口にしていないだろう。少しは食べないと、身体が持たない」
「……あ。……それは……」
「『食欲が湧かない』――か?」
「…………すみません」
――セドリックはここ数日、水以外のものを殆ど口にしていなかった。
喉に物が通らず、パンや肉は食べてもすぐに戻してしまう。
スープなら飲めるかと思ったが、この国の調味料や香辛料は、病気の身体にはどうしても合わなかった。
口にできそうなものといえば果物くらいだったが、現在ランデル王国内の生鮮食品――中でも果物価格は、帝国とスタルク王国の戦争の影響を受けて高騰している。
そのため果物は贅沢品となり、孤児院の食卓に並ぶことはなくなっていた。
(ああ。本当に僕は、どこまで殿下の足を引っ張れば気が済むんだ)
セドリックは唇を噛みしめる。
本来ならば、自分がアレクシスを支えなければならないのに――と。
そんなセドリックの気持ちを知ってか知らずか、アレクシスが呟いた。
「すまない」と。
「……え?」
「すまない。……お前に、何もしてやれなくて」
「……そんな。――そのようなことをおっしゃらないでください! 大丈夫です! 明日にはきっとよくなりますから! すぐに治しますから!」
「……ああ、そうだな。……早く……早く元気な姿を見せてくれ、……セドリック」
「――!」
「俺には……もう……、……お前、しか……」
「……っ」
今にも泣きだしそうなアレクシスの声に、いつになく弱気なその表情に、セドリックはハッと息を呑む。
――セドリックは知っていた。
二年前、ルチア皇妃が亡くなってからというもの、アレクシスが毎晩のようにうなされていることを。
この場所に送られてから、いや、それよりもずっと前から、アレクシスが自分以外の人間と言葉を交わさなくなったのは、人を信じられなくなってしまったからなのだと。
そして悟ったのだ。
アレクシスの精神が、とっくに限界を迎えてしまっていることに。
「……アレクシス……殿下」
(ああ……。いったいどうしたら……どうしたらこの方の心を救うことができるのだろう)
そうは思っても、まだ十二だったセドリックには、何が正解かわからなかった。
何と言葉をかければいいのかもわからなかった。
結局セドリックはそれ以上何も言えず、「よく休め」とだけ言い残して部屋を出ていくアレクシスの背中を、黙って見送ることしかできなかった。
――その晩、セドリックは真夜中の教会にひとり忍び込み、祈りを捧げた。
もしもこの世に神が実在するというのなら、お願いです。どうか殿下を救ってください。
誰でもいい。殿下の孤独な心を、癒やしてください。
殿下の辛い過去は、僕が死ぬまで背負います。
だから、何も知らず、ただ、あの方に安らぎを与えることのできる誰かを、どうかお授けください――と。
すると、その翌日だった。
セドリックの祈りが通じたのか、アレクシスはセドリックの為に果物を手に入れようと教会を抜け出した先で、エリスに出会ったのだ。
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