30歳無職、人生詰んだ。ハローワークで見つけた月給50万の怪しい求人に応募したら、SF掃除機で幽霊の“周波数”を掃除する超理論派ゴーストバスターズに採用された。
第7話 黒いエクトとリーダーの貌(かお)
第7話 黒いエクトとリーダーの貌(かお)
八月に入り、日本列島は、さながら巨大なオーブントースターの中に放り込まれた食パンのように、連日、猛烈な熱波に焼かれていた。
ここ川口市でも、例外なくアスファルトは粘着性を帯びるほどに熱せられ、陽炎が蜃気楼のように景色を歪ませている。外に一歩出ただけで、全身の毛穴から汗が噴き出し、思考能力は著しく低下する。蝉たちは、まるでこの世の終わりを告げるかのように、あるいは、自らの短い生のすべてを燃やし尽くすかのように、「ジジジジジッ!」と狂ったように鳴き続けていた。もはや騒音だ。夏の風物詩などという、情緒的な言葉で片付けられるレベルを、とっくに超えている。
そんな灼熱地獄の中、俺たちの職場『アストラル・チューニング・ソリューションズ』の事務所は、まさに砂漠の中のオアシス、あるいは、地獄の中の天国だった。
「あ~…生き返る…」
俺、佐藤健太は、ソファに寝そべり、天井に設置された最新鋭のエアコンから吹き出す、清浄で冷たい風を全身に浴びていた。このエアコンは、先月、西園寺かおりが「あなたたちの労働環境は、熱帯雨林のゴリラの住処より劣悪よ!」と、半ば強引に設置していった代物だ。AIが室温と湿度を最適に保ち、なんかこう、体にいい感じのイオンまで放出してくれるらしい。このリモコン一つで、俺は世界の王にでもなれる気分だった。
事務所の日常は、すっかり板についていた。
研修生として正式に(?)採用された橘ひかりちゃんは、甲斐甲斐しく麦茶の準備をしている。彼女がいるだけで、この殺伐とした空間の湿度が三パーセントくらい下がる気がする。俺は、そんな彼女の教育係という大役を任されているが、実際には、彼女の淹れてくれた麦茶を飲みながら、だらだらと先輩風を吹かせているだけだ。
「ひかりちゃん、人生っていうのはな、頑張りすぎると、どこかで必ず歪みが出るもんだぞ。俺みたいにな」
「そうなんですか? 先輩は、いつもすごく頑張ってるように見えますけど…」
「ばかやろう、それは錯覚だ。俺は、いかに楽して五十万稼ぐか、その一点に全精力を注いでいる、省エネのプロなんだ」
「ふふっ、先輩は面白いですね!」
ひかりちゃんは、ころころと鈴が鳴るように笑う。その笑顔が、俺の腐りかけた魂を、ほんの少しだけ浄化してくれる。…まずいな、このままだと、俺、本当に更生してしまうかもしれない。
そんな平和な午後だった。
俺たちが、いつものように、それぞれの持ち場で怠惰と勤勉の入り混じった時間を過ごしていた、その時だった。
オペレーションルームの周防さんが、すっと休憩室に顔を出した。その表情は、いつも通りの無表情。だが、俺は、彼女のメガネの奥の瞳が、ほんのわずかに、しかし確実に、険しい光を帯びているのを見逃さなかった。
「皆さん。少し、気になるデータが出ています」
彼女が壁の大型モニターに表示したのは、川口市一帯の周波数マップだった。普段は、穏やかな青色で示されているマップの、いくつかの地点に、チカチカと、赤いノイズのような点が、断続的に現れては消えている。
「なんだ、こりゃ。またどっかでエクトが湧いてんのか?」
姫川さんが、工具の手を止めて言った。
「いえ。エクト反応ではありません。もっと微弱で、そして…奇妙なほど『規則的』なノイズです。まるで、何者かが、モールス信号でも打っているかのように」
周防さんの言葉に、それまで古文書に没頭していた鬼頭さんと田中住職も、顔を上げた。犬飼さんも、天井の配管から、モニターへと視線を移している。
事務所の空気が、ほんの少しだけ、張り詰めた。
それは、これから始まる、長い悪夢の、ほんの序曲に過ぎなかった。
***
異変は、突然、そして大規模に訪れた。
その日の午後三時。夏の太陽が最も高く、そして最も残酷に地上を照りつける時刻。
事務所全体に、これまで聞いたこともない、けたたましい緊急アラートが鳴り響いた。それは、空襲警報と、心臓の不整脈をミックスしたかのような、聞いているだけで心拍数が跳ね上がる、極めて不快な音だった。
『緊急事態発生! 緊急事態発生! 川口駅東口、複合商業施設『リリア・キューブ』にて、高レベルのエクト反応を多数同時補足! 汚染レベル、計測不能! コード:ブラック! これは訓練ではありません! 全員、直ちに出動してください!』
周防さんの、いつになく切羽詰まった声が、スピーカーから響き渡る。
コード:ブラック。
初めて聞く単語だった。だが、その響きだけで、これが冗談ではない、尋常ではない事態だということは、嫌でも理解できた。
休憩室の空気が、一瞬で凍りついた。
鬼頭さんの顔から、いつもの人の良さそうな笑顔が、まるで能面のように、すっと消え去った。彼の瞳の奥に、暗く、そして冷たい炎が宿る。
隣にいた犬飼さんも、その表情をこわばらせ、まるで遠い戦場の音を聞くかのように、一点を凝視している。
姫川さんは、悪態もつかず、ただ黙って、両腕のガントレットを装着し、起動チェックを始めていた。その横顔は、俺が今まで見た中で、最も険しく、そして美しかった。
「ひかりちゃんは、事務所で待機だ! 周防さんのサポートを頼む!」
鬼頭さんが、低い、しかし有無を言わさぬ声で命じた。
「で、でも…!」
「言うことを聞け! これは、お前がどうこうできるレベルの案件じゃない!」
鬼頭さんの、父親のような、しかし絶対的な拒絶を含んだ言葉に、ひかりちゃんは、悔しそうに唇を噛み、こくりと頷いた。
「…佐藤!」
「は、はい!」
「お前は来い。戦力としては期待しねえ。だが、この現実から、目を背けるな」
俺たちは、ほとんど言葉も交わさず、戦闘準備を整え、ハイエースに乗り込んだ。
灼熱のアスファルトを蹴って、バンが急発進する。車内には、重苦しい沈黙だけが満ちていた。エンジンの唸りと、荒い呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は、この仕事の本当の顔を、まだ、何も知らなかったのだ。今日、この瞬間まで。
***
現場は、地獄だった。
川口駅東口にそびえ立つ、巨大な複合商業施設『リリア・キューブ』。普段なら、夏休みの家族連れや、学生たちで賑わっているはずのその場所は、今や、パニックと恐怖が渦巻く、カオスの坩堝と化していた。
施設の入り口からは、人々が、叫び声を上げながら、我先にと逃げ出してくる。
「助けてくれ!」「頭がおかしくなる!」「化け物が…化け物が見えるんだ!」
地面に座り込み、頭を抱えて嘔吐している者。何もない宙を睨みつけ、意味不明な言葉を叫んでいる者。その光景は、まるで集団ヒステリーか、あるいは、バイオハザード映画のワンシーンのようだった。
「ひどいな…」
姫川さんが、歯噛みする。
「行くぞ!」
鬼頭さんの号令で、俺たちは、人の波に逆らうようにして、施設の中へと突入した。
そして、スペクターゴーグルを装着した俺の目に、その惨状の原因が、はっきりと映し出された。
「…なんだよ…あれは……」
いる。
いる、いる、いる。
施設の吹き抜けの空間を、まるで黒い鳥の群れのように、無数のエクトが飛び交っていた。
だが、そいつらは、俺が今まで見てきたエクトとは、全くの別物だった。
色は、光を一切反射しない、まるでブラックホールのような、禍々しいほどの「黒」。
形は、鋭い刃物のような破片が組み合わさってできた、幾何学的な結晶体のよう。
そして、何よりも違うのは、その動きだった。これまでのエクトのように、ふらふらと、あるいは、本能のままに動いているのではない。そいつらは、まるで高度な訓練を受けた軍隊のように、一糸乱れぬ編隊を組み、統率の取れた動きで、施設内を蹂虙していた。
彼らが飛び交うたびに、その体から、不協和音のような、聞いているだけで精神が削られるような、邪悪な周波数が撒き散らされる。一般の人々には見えない、聞こえない、その攻撃が、人々の精神を直接破壊し、パニックを引き起こしているのだ。
こいつらは、ただそこに『いる』だけの存在じゃない。明確な『悪意』と『知性』を持って、人間を攻撃している。
「…来たか」
鬼頭さんが、まるで旧友に再会したかのように、静かに呟いた。その声には、怒りと、悲しみと、そして、どこか懐かしむような、複雑な響きが混じっていた。
***
戦いは、熾烈を極めた。
いや、戦いと呼ぶのもおこがましい、一方的な蹂虙だった。俺たちが、蹂虙される側だった。
「くそっ、キリがねえ!」
姫川さんが、ガントレットから衝撃波を連射する。数体の黒いエクトが、その衝撃を受けて砕け散るが、すぐに後続の群れが、その穴を埋めるように襲いかかってくる。
「こいつら、俺たちの攻撃パターンを学習してやがる! 周波数を微妙に変えて、威力を相殺してきやがるんだ!」
鬼頭さんの巨大なキャプチャーガンも、普段の圧倒的な威力は鳴りを潜めていた。黒いエクトたちは、巧みな連携で、一匹が囮となって攻撃を受け止め、その隙に別の個体が死角から攻撃を仕掛けてくる。
犬飼さんが展開した防御結界も、敵の執拗な集中攻撃を受け、ガラスにひびが入るように、ミシミシと嫌な音を立てていた。
「ぐっ…!」
結界の一部が、ついに破られた。
その裂け目から侵入してきた数体の黒いエクトが、俺めがけて殺到する。
「佐藤!」
姫川さんが俺を庇おうとするが、別の群れに阻まれて動けない。
もうダメだ。死んだ。
俺が、固く目をつぶった、その時。
俺の目の前に、犬飼さんが、身を挺して立ちはだかった。
「…僕の…後ろに…」
彼は、黒いエクトの攻撃を、その身に直接受けた。彼の体から放たれるオーラが、バチバチと激しい火花を散らして、大きく揺らぐ。
「犬飼さん!」
「…問題…ありません…。これが、僕の仕事ですから…」
彼は、血の気の引いた顔で、それでもなお、俺の前に立ち続けた。
俺は、ただ、震えることしかできなかった。
これが、本当の戦場。これが、この仕事の、本当の危険。
これまでのように、ドタバタやって、笑って済ませられるような、そんな甘い世界じゃない。
俺は、自分の無力さを、そして、この仕事に対する認識の甘さを、心の底から痛感していた。
***
「…もう、いい」
その声は、地獄の底から響いてくるかのように、低く、そして冷たかった。
鬼頭さんだった。
彼の全身から、これまで見たこともないほどの、巨大で、禍々しいオーラが、まるでマグマのように噴き出していた。それは、赤黒く、不安定に揺らめき、周囲の空間そのものを歪ませるほどの、圧倒的なプレッシャー。
彼の貌は、もはや、俺の知っている人の良いリーダーのそれではなかった。憎悪と、絶望と、そして、すべてを破壊し尽くさんとするほどの、純粋な怒りに満ちた、修羅の貌だった。
「犬飼、アレを使うぞ」
その言葉に、犬飼さんが、はっとしたように鬼頭さんを振り返った。
「鬼頭さん、ダメだ! アレを使ったら、あなたの体が…! それに、まだ、その時じゃ…!」
「うるさい!」鬼頭さんが、吠えた。「仲間がやられてるんだぞ! もう、我慢の限界だ…!」
アレ? アレってなんだ?
二人の緊迫したやり取り。鬼頭さんが、このATSの、あるいは彼自身の、最後の切り札とも言える、何かとんでもなく危険な手段を使おうとしている。そのことだけは、俺にも分かった。
鬼頭さんが、キャプチャーガンの、普段はロックされているリミッターを、無理やり解除しようとした、その瞬間だった。
ふっ、と。
あれほど執拗に、そして獰猛に俺たちを攻撃していた黒いエクトたちが、まるで、司令官から命令でも受けたかのように、一斉に、その動きを止めた。
そして、次の瞬間。
彼らは、来た時と同じように、何の前触れもなく、一斉に、空間に溶けるように、忽然と姿を消した。
後に残されたのは、静寂だけだった。
パニックに陥った人々の、遠い叫び声。破壊された店舗の残骸。そして、床に崩れ落ち、激しく咳き込む鬼頭さんと、傷ついた仲間たち。
まるで、巨大な嵐が、すべてをめちゃくちゃに破壊して、通り過ぎていったかのようだった。
事務所への帰り道、ハイエースの中は、鉛を飲み込んだかのような、重い沈黙に支配されていた。
誰も、一言も、話さなかった。
俺は、窓の外を流れる、夕暮れの街を眺めていた。人々は、何も知らずに、日常を生きている。ほんの数キロ先で、あんな地獄絵図が繰り広げられたことなど、知る由もなく。
俺は、初めて、本気で「死」を意識した。
そして、鬼頭さんと犬飼さんが、その背中に、どれほど重く、そして暗い過去を背負っているのか、その断片に触れてしまった。
もう、後戻りはできない。
俺たちの、奇妙で、騒がしくて、どこか楽しかった日常は、今日、この日を境に、終わりを告げたのだ。
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