この契約結婚、偽りの愛のはずが、鬼神領主様の呪いも解いてしまいました
☆ほしい
第1話
ひんやりとした風が、綻びの目立つ障子を揺らしている。
私は、縁側で静かに目を閉じた。
私の意識は、屋敷を取り囲む森へと向けられている。
かつて、この森は生命力に満ち溢れていた。
木々は天を突き、葉擦れの音は豊かな歌声のように響き渡り、地面は瑞々しい苔で覆われていた。
森に宿る木霊(こだま)たちの声は、私にとって子守歌であり、遊び相手だった。
けれど、今聞こえてくるのは、か細く、苦しげな囁きだけ。
『……くるしい……』
『……かれていく……』
まるで、熱に浮かされた病人の呻き声。
その声を聞くたびに、私の胸は締め付けられるように痛む。
没落した伊吹家の最後の姫。
それが、今の私のすべてだ。
一年ほど前、秋月と名乗る武家が、圧倒的な力でこの土地を支配下に置いた。
父も兄も、その戦で命を落とした。
伊吹の血を引く者は、もはや私ただ一人。
新しい領主である秋月 景久(あきづき かげひさ)は、戦場で「鬼神」と恐れられるほどの武人だと聞く。
その武力によって、私たちの領地はあっけなく奪われた。
私は、先祖代々の屋敷から追い出されることもなく、見せしめのように生かされている。
いや、正確には、忘れ去られているだけなのかもしれない。
屋敷は荒れ、忠義を誓ってくれた家臣たちも、今では数えるほどしか残っていない。
それでも私がここに留まるのは、枯れゆく森を見捨てることができないからだ。
伊吹の女は代々、木霊の声を聴く力を持って生まれてくる。
森の巫女として、大地と共に生きてきた。
森が枯れるのは、大地が生命力を失っている証。
このままでは、田畑は痩せ、民は飢えるだろう。
自分の無力さが、ただただ歯がゆくてたまらない。
「姫様、冷えてまいります。中へお入りください」
背後から、老婆の優しい声がかけられた。
幼い頃から私の世話をしてくれている、侍女のハルだ。
「ハル……。また、木たちが泣いているわ」
私が振り返らずに言うと、ハルは悲しそうに眉を下げた。
「……そうでございますか」
ハルの声には、私をいたわる響きがあった。
彼女には木霊の声は聞こえない。
それでも、この私がどれほど森を想い、心を痛めているかは痛いほど分かってくれている。
その日の午後、静寂を破るように、屋敷の古びた門が叩かれた。
珍しいことに、来訪者を告げたのは、秋月家の者だった。
現れたのは、格式高い鎧をまとった壮年の武士。
秋月家の家老、永井と名乗った男は、感情の読めない顔で私に深々と頭を下げた。
「伊吹の姫君に、我が主、秋月景久様より言伝(ことづて)がございます」
その言葉に、私は背筋を伸ばした。
ついに、この屋敷からも追われる時が来たのかもしれない。
私の覚悟をよそに、家老が告げた言葉は、想像を絶するものだった。
「我が主、景久様と、姫君との間に、祝言を執り行いたく存じます」
「……何と、おっしゃいましたか?」
聞き間違いかと思った。
祝言。それは、結婚を意味する言葉だ。
敵であるはずの男が、なぜ。
家老は、淡々とした口調で説明を続けた。
「これは、政略にあらず。この土地に古くから伝わる、盟約に基づくもの」
「盟約……?」
初耳だった。
「かつてこの地を大いなる厄災が襲った折、伊吹家の巫女が、荒ぶる山の神を鎮めたと聞き及んでおります。その際、神と交わした約束……。すなわち、土地の力が衰えし時、伊吹の巫女は、その時代で最も強い力を持つ武人と結ばれ、荒ぶる魂を鎮め、大地を癒すべし、と」
家老の話は、まるで御伽噺のようだった。
だが、私は知っている。
伊吹の血筋が、ただの人間ではないことを。
この、木霊の声を聴く力が、その証だ。
「最も強い力を持つ武人……。それが、秋月景久だと?」
「左様。景久様は、常人離れした武の力をお持ちです。しかし、そのあまりに強大な力は、景久様ご自身の魂を蝕み、荒ぶらせておられる。触れるものの生命力を吸い取るという呪いに、お苦しみになられているのです」
鬼神、という異名の裏に隠された、領主の苦悩。
初めて聞く事実に、私は息を呑んだ。
触れるものの生命力を吸い取る呪い。
だから、この森は枯れていくのか。
領主の魂が荒ぶることが、土地の活力を奪っている。
私の中で、点と点がつながった。
「景久様の荒ぶる魂こそが、この地を枯らす元凶。姫君の持つ癒やしの力で、景久様の魂を鎮めていただきたい。さすれば、大地は再び、生命力を取り戻すでしょう」
「……私が、あの方の魂を鎮める?」
「伊吹の巫女にしかできぬこと。これは、この地に生きるすべての民のための願いでございます」
家老はそう言って、再び深く頭を下げた。
政略ではない。
民のため。
その言葉が、重く私の心にのしかかる。
憎い敵。
家族を奪った男。
だが、このまま森が枯れ果て、土地が死んでいくのを見過ごすことなど、私には到底できなかった。
か細い木霊たちの声が、耳の奥で響く。
助けて、と。
「……分かり、ました」
気づけば、声が漏れていた。
「伊吹の最後の姫として……いいえ、この森の巫女として、その盟約、お受けいたします」
それは、苦渋の決断だった。
同時に、ようやく自分が為すべきことを見つけたという、不思議な安堵感もあった。
私の返答に、家老の険しい顔が、わずかに和らいだように見えた。
「ご英断、かたじけなく存じます。では、三日後にお迎えに上がります」
家老が去った後、部屋は再び静寂に包まれた。
ハルが、涙を浮かべた瞳で私を見つめている。
「姫様……よろしいのでございますか。鬼神と噂されるようなお方の元へ嫁がれるなど……」
「いいの、ハル。これで、森が救えるのなら」
私は、穏やかに微笑んでみせた。
心の中は、嵐が吹き荒れているというのに。
偽りの愛を捧げる。
呪われた鬼神に、この身を差し出す。
それは、伊吹の巫女に課せられた、最後の務めなのだ。
三日後。
私は、簡素な白無垢に身を包み、迎えの駕籠に乗った。
屋敷に残る者たちに別れを告げ、揺れる駕籠の中から、遠ざかっていく我が家を見つめる。
これから向かうのは、秋月景久が居城とする、黒鉄城。
冷たく、静まり返った城だと聞く。
どんな場所で、どんな男が待っているのだろう。
不安と、ほんの少しの恐怖。
だが、それ以上に、私の心には強い決意が宿っていた。
この結婚は、契約だ。
土地を、民を、そして愛しい木霊たちを救うための。
そこに、心を通わせる必要などない。
ただ、巫女としての役割を果たすだけ。
駕籠の窓から、枯れた木々が痛々しく空に枝を伸ばしているのが見えた。
(待っていて……。必ず、あなたたちを癒してみせるから)
私は、胸の中で強く誓った。
偽りの愛を捧げる先に、本当の春が訪れることを信じて。
枯れゆく森と、凍てつく心。
この契約が解けるとき、私たちの春は訪れるのでしょうか。
そんな言葉が、ふと心に浮かんだ。
駕籠は、鬼神の待つ城へと、静かに進んでいった。
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