第29話 迷いの先に刻まれていたもの
朝六時。
ルクは目を覚ました。
これは、かつて地下のコロッセオで暮らしていた頃から続く、染み付いた習慣だった。
暗闇の中で誰よりも早く起き、気配を殺して動く。そうしなければ、生き残れなかった。
……今はもう、その必要はない。
けれど、その習慣だけは、まだ体から抜けていなかった。
静かな部屋。
いつもなら、この時間にセリアを起こしていた。もっとも、彼女が素直に起きたことはなかったが――。それでも「起こす」という行動が日常であり、それが今はないことに、妙な違和感を覚える。
ルクは洗面台で顔を洗い、歯を磨く。冷たい水が頬を撫で、目を覚まさせる。
そして、机の上に置かれた紙袋に気づいた。中には、ふんわりと焼き色のついたパンが入っている。
昨日、別れ際にセレが言っていた。
「美味しいパン屋さん見つけたんですよ。朝ごはんにどうぞ」
その言葉通り、パンはしっとり柔らかく、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。昨日焼かれたはずなのに、まるで焼きたてのようだった。
(……どこの店なんだ)
ルクは、次の機会にセレに聞こうと心に留めた。
時刻は七時を少し回ったばかり。始業は九時。
だが――ルクは制服を手に取ると、何の迷いもなく着替え始めた。
やることが、ない。
だから、早く行こう。
どうせ部屋にいても時間を持て余すだけなら、いっそ早めに校舎を歩いて様子を見ておいた方がいい。
制服を整え、軽く体を動かして動きやすさを確かめる。
ふとベッド脇に視線を移した。
ベッド脇、壁に掛けられたローブが視界の端に揺れている。
セリアから贈られたものだ。
深い藍色に銀の糸――思い出すだけで、あのときの彼女の笑顔まで浮かんでくる。
それは、彼の中に刻まれた“帰る場所”の象徴だった。
学園指定の制服がある以上、今は着られない。
けれど、休日になったら――そう思い、ルクはセリアのローブを丁寧にハンガーに掛け直す。
そして扉に手をかけ、ふと立ち止まった。
振り返り、誰もいない部屋に小さく声をかける。
「……行ってくる」
誰かに聞かせるつもりも、誰かに届くこともない言葉。
それでも、彼にとってはそれが“大切な習慣”だった。
* * *
そして現在――午前九時。始業時間。
教室に、ルクの姿はない。
彼は――迷っていた。
ようやく足を止めたのは、人気のない石畳の通路だった。
古めかしいアーチ状の石柱が、そこに一対、静かに立っていた。磨かれた灰白の柱は、天井を支えるようにアーチを描いており、通路とその先の中庭をゆるやかに隔てている。
アーチの奥には、円形の中庭が広がっていた。
中央には小さな噴水が据えられ、水面にかすかな波紋が広がっている。陽の光は建物の隙間から斜めに差し込み、噴水の縁や、周囲の石壁に淡く反射していた。人工的な手入れは最小限にとどめられ、植えられた草花もなく、ただ野草と石と水だけで構成されたその空間は、どこか静謐で、儀式めいた神聖ささえ漂わせていた。
――やってしまった。
流石のルクもそう思った。
地図を何度見返しても、自分がどこにいるのか分からない。階段も、曲がり角も、同じような場所がいくつもある。教室の番号すら覚えているのに、辿り着けないという奇妙な感覚。
ルクは地図を手にしたまま、アーチの根元に腰を下ろした。
冷たい石の感触が、制服越しに背中を押し上げる。水の音はほとんど届かず、代わりに静けさが耳を包み込んだ。焦りはなかった。ただ、セリアといた時とは違い、こうして一人でいることの不慣れさに、ほんの少しだけ胸がざわついた。
ふと、視界の端に違和感があった。
座ったまま顔を上げると、アーチを支える柱の根元に、なにかが刻まれている。
さりげない石の装飾――のように見えたが、目を凝らしてみれば、それはただの意匠ではない。
模様に、見覚えがあった。
「……エル、ザフル?」
その瞬間、ほんの一拍だけ、空気が凍りついた。
――音が、消えた。
風も、鳥の声も、水音さえも止まり、
世界が、ルクの発した言葉に“聞き入った”ようだった。
石柱に刻まれていた模様に見えるものは、セリアに教わった“古代語”だった。ルクは自然と、その発音を口にしていた。
だが――意味はわからない。
文字は読める。音にすることもできる。
けれどこの単語だけは、意味を聞いた覚えがなかった。
それでも、口に出したとき――小さく、体の奥で魔力が揺れた。
……あっ。
遅かった。
初めて読む古代語は、意図せずとも魔法を引き寄せる――
そんな大事なことを、すっかり忘れていた。
突如として――音がした。
ぼこっ、という鈍い音。
それに続いて、水のうねりが空気を押し上げた。
中庭の噴水が、うねるように膨れあがったのだ。
まるで地下から突き上げるように、水が盛り上がっていく。
すぐに、白濁した水柱が、地を這うような唸りを伴って噴き上がった。
噴水の中央から勢いよく飛び出した水は、瞬く間に十メートル近い高さまで上がり、陽光を反射して白銀の帯となって空を裂いた。
音を立てて、噴き出す。
水は溢れ、跳ね、あたりを濡らし尽くした。
植え込みが倒れ、ベンチが押し流される。レンガの敷石の隙間から染み出す水音までもが、騒音のように耳に迫った。
「……何をしてるの……」
その声に、ルクはゆっくりと振り返った。
石のアーチを抜けた先、濡れた石畳を踏みしめるようにして現れたのは――セレだった。
肩で息をしている。どうやら全力で走ってきたらしい。
額には汗がにじみ、頬はほんのりと上気していた。けれどその瞳は真っ直ぐにルクを捉えていた。
怒りと――心底、安堵したような色が浮かんだ瞳。
「大きな音がしたと思ったら……やっぱり、ルクだった……」
深いため息混じりに、そう呟いた彼女の視線は、すぐに中庭の中心へと移った。
未だ激しく噴き上がる水柱。唸るように弾ける噴水は、もう完全に暴走状態だった。
だが――セレはそれを見て、ほんの一拍だけ黙り込んだあと、さらりと口にした。
「……多分、噴水の故障ね」
その声音は、どこか自分自身に言い聞かせるようだった。
そして、すぐにルクの腕をぐいっと引っ張る。
「そんなことより、ルク。早く教室に行くよ!」
セレの声には、焦りが混じっていた。
彼女の指は細いが意外なほど力強く、戸惑いながらもルクは歩き出す。
ぽちゃん、と水飛沫が足元に落ちた。
それでもセレは振り返らない。逃げるように、けれど堂々と、廊下を進んでいく。
「なんで、一人で行こうとするのよ!」
歩きながら、セレが声を荒げた。ルクの腕を引いたまま、彼女は前を向いたまま怒っている。
「カイルから、ルクがいないって聞いて……本当に心配したんだから!」
ルクは歩きながら、黙ってその言葉を聞いていた。
校舎は巨大で、しかも迷路のように複雑だ。セレが怒るのも無理はなかった。
「校舎の中にいるって思いたかったけど……もし街のほうに出ちゃってたらって考えたら、もう絶望的だったんだから……!」
怒気の裏に、滲んだ安堵の気配があった。
早足のくせに、ルクの歩幅に合わせるように少しずつペースを落としているのが分かる。
「いい? 次から移動するときは、絶対に――私かカイルと一緒に!」
語尾を強く言い切ると、セレはようやく立ち止まり、ちらりとルクを振り返った。
「……どこかで、地図の見方も教えなきゃダメね。そもそも迷いすぎなのよ、ルクは」
そこには、完全な怒りではなく、呆れと――心配と、微かな照れが入り混じっていた。
ルクは小さく頷いた。
自分が何か悪いことをしたという実感は、あまりない。
だが、この目の前の少女の声が震えるほど怒っているのなら、たぶん、自分は――迷ってはいけなかったのだ。
ようやく教室の前までたどり着いた。
扉の上には《1-D》の文字板が掛かっている。セレは立ち止まり、手元の地図と見比べて小さく頷いた。
「間違いない、ここだね」
そう呟いて先に扉を押し開ける。
静寂が一瞬だけ流れたかと思うと、すぐに低く響く声が飛んできた。
「……初日から遅刻とは、なかなかいい度胸だな――セレフィナ・ノルゼリア、ルキアリス・ラスカリエ」
叱責とも取れるが、その口調にはどこか皮肉めいた柔らかさがあった。
ルクは、呼ばれた名を聞いて一瞬だけ足を止める。
(……自分のフルネーム、久々に聞いたな)
淡々とした口調のその言葉が、妙に他人事のように感じられた。
ルキアリス・ラスカリエ。長くて重々しい響きだ。
もはやルクだけでもいいんじゃないか――そんな考えがふと頭をよぎったが、思い直す。
この名は、セリアがくれた“最初の贈り物”だった。
そのことを思い出すたびに、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
ちなみに「ラスカリエ」という名字は、セリアが「ないと格好つかないでしょ! この街の名前をそのまま名乗っちゃえ!」といつものように、何気なく、当然のようにつけてくれた。
(……そういえば、セリアの名字、聞いたことなかったな)
そんなことを考えているうちに、教室内の視線がルクへと集中し始めていた。
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