ファントム、作戦開始【フェーズ2:奈落(アビス)のオークション】 2

「うーん、それにしても何も起きないのね」


 窓から外を眺めながらの玲奈の呟きに、ユキは微笑みながら「そうね」と答えた。


「きっと、誰かが何かをしてるのよ」


 彼女の視線の先にいるのは、ファントムこと灰島だ。


「俺じゃない。瀬尾がせっせとデコイを世界中にばらまいてるからだろうな」


 灰島がそう言うと、壁のモニターから「そうそう」と瀬尾の声が流れてきた。


「作った端から壊されちゃってるから、常に作り続けないといけないんだよね。マジ、超寝不足。ってか、ランダムに作ってるのに日本のデコイにしか反応しねぇの、こいつら。ユキちゃんが日本にいるのは完全にバレちゃってるね。折角、ユキちゃんの存在を消してたのに、ホント、誰が裏切り者なんだか」


 ペラペラしゃべりながらも、瀬尾の指の動きは止まらない。


「さて、そろそろショータイムだ」


 モニターがカウントダウンを始める。


「始まりまりますね……」


 モニターの光に顔を照らされながら、灰島は静かに答えた。


「ああ。地獄の釜の蓋が開くぞ」


 カウントダウンタイマーがゼロになった瞬間、オークションサイト『タルタロス』の黒い画面に、最初の入札が投下された。しかし、そこに表示されたのは当然機密情報そのものではない。


 その情報の「価値」を証明する、デジタルな指紋と、悪魔的な「予告状」だった。


【入札者:MSS(中国国家安全部)】


「……これって本当なの?」


 ユキがそう言いたくなるようなハンドルネームに、瀬尾は「どうだろうねぇ」と呑気に答える。


 内容は、某アフリカの要人・対象5名のイニシャル。及び、そのうち1名のスイス銀行口座番号の下4桁のみと、一件の送金記録のスクリーンショットだが、その画像から日付と金額以外は黒塗りにされ読めない。

「これは、分かる人間には分かる、という情報ですな」


 隠れ家でモニターを見ていたマスターが、小さく息を呑んだ。全てが隠されていても、本物だけが持つ圧倒的なリアリティがあった。この断片的な情報だけで、心当たりのある者たちをパニックに陥れるには十分すぎる。


 また、これならば情報の価値を損なうことなく、自らの手札の強さを誇示できる。


 勿論、これを見ているのは灰島達だけではない。世界中の地下組織に存在する選ばれた人間たちがこれを見ている。


 そして、最初に投下された中国の機密情報が基準となり、『タルタロス』は世界の諜報機関による、より狡猾で、より致命的なカードの切り合いへと移行していった。


【ロンドン / MI6本部】


「あらあら、中国がいやらしい情報を投下したと思ったら、次はアメリカの小物ね。大統領のスキャンダルなんて、我が国の王室ゴシップに比べれば可愛いものだわ」


 モニターを眺め、セレスティーナは楽しそうに紫煙を燻らせる。


「まあ、見ていなさい、セレス」


 老練な支局長は、紅茶を一口すすると、彼女に笑いかけた。


「中東の狂信者やロシアの熊どもが、我々の出し抜いてレシピを手に入れるなど、女王陛下の悪夢よりあり得ないことだよ」


 彼は部下に目配せすると、MI6は静かに、しかし致命的なカードを切った。 『タルタロス』の画面が更新され、表示されたのは英国の獅子がロシアの熊に突き立てた、鋭い爪痕だった。


【FSB欧州潜伏ネットワーク『オルフェウス』について。構成員の一人、在ドイツ大使館付武官ヴィクトル・イワノフの写真(解像度低)と、彼が本国と交わした暗号通信記録の一部(タイムスタンプのみ)】


 その瞬間、モスクワのFSB本部では警報と怒号が飛び交ったに違いない。長年かけて築き上げた欧州諜報網に、致命的な亀裂が入ったのだ。


「これでFSBはオークションどころではなくなるわね」


 セレスティーナが紅い唇で微笑む。だが、追い詰められた熊は、ただでは死なない。即座に、狂気の報復が行われた。


【入札者:FSB(ロシア連邦保安庁)】


【英国の核抑止力に関する脆弱性データについて。トライデント級原子力潜水艦『ヴィジラント』の、最新の音紋データの一部と、パトロール航路に関する過去のデータログ】


「あの能無しども……!」


 ロンドンのMI6本部。今度はセレスティーナが悪態をつき、支局長の顔からは、いつもの余裕が消えていた。国家の最後の砦である核の抑止力を人質に取るという、禁じ手中の禁じ手だ。



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