ファントム、隠し子現る1

 蝉の声が、アスファルトの熱をじりじりと溶かすような夏の朝。灰島の一日は、いつも同じように始まる。


 アパートを出ると、すでに準備運動を済ませた玲奈が待っていた。


「今日こそ一本取るから!」


「……格闘技じゃないんだ。一本取ったところで勝ちなわけでは」


「勝ちなの! 私はあんたに勝ちたいのよ!」


 これではいつまでたっても『試合』の域を出ないのだが、それでもいいと思っている自分もいる。『実戦』なんてものは、普通に生活していくうえで必要はないし、必要とされない生活こそが望みなのだから。


 だから、それ以上は何も言わず走り出せば、玲奈もついてくる。軽くランニングし、それから組手を何度も繰り返す。体の動かし方は、頭で覚えるよりも体で覚えた方がいい。


 彼女は筋がいい。アドバイスすればすぐに吸収する。


「はぁっ!」


 鋭い呼気と共に放たれる回し蹴り。灰島はそれを半身でかわし、軸足に軽く足を引っ掛ける。いとも簡単に体勢を崩した玲奈は、悔しそうに受け身をとって地面を転がった。


「……終わりだ」


「ま、待って! 今のは油断しただけ! もう一回!」


「受け身の取り方はうまくなったな」


「きーーーーーーっ!! もっと違うことを褒めなさいよ!!」


 本気で褒めたのだが、それを言えば彼女はますます機嫌を悪くするから、「もう時間だ」と時計を見せる。


「わっ! 遅刻する!!」


 そう、彼女はまだ学生なのだ。玲奈は飛び起きて走り出す。その後ろで灰島は小さく笑って、高く上がった太陽を見上げた。


「……気が住んだか? 瀬尾」


 その声に、隠れていた男が姿を表した。


「なんか俺、ストーカーみたいじゃね?」


「みたいではなく、そのものだ」


「仕事なんだけどね」


「知ってるから、生かしてるだろう?」


 その言葉に嘘がないから、瀬尾の笑みがひきつる。ファントムと呼ばれた彼の実力があれば、自分を殺すことは可能だろう。勿論、簡単に殺される気は毛頭ない。


「ってか、どういう気持ちの変化? 弟子なんかって何するつもりだ?」


 弟子、という言葉を否定したかったが、他に変わる言葉が見つからず灰島は「ふむ」と声を漏らした。


「世の中、物騒だからな。護身術くらいは極めてもいいだろう?」


「……お前の周りだけ物騒だから。ってか、護身術の域を超えてるの、分かってる?」


「人の殴り方を教えろと言われたから、教えてるだけだ。ついでに人体の急所、どこをどれくらいの力で殴れば動きを止め、息を止め、殺すことができるか、力加減まで教えてやらんといろいろ困るだろう? さすがに遺体の処理方法までは──」


「はい、ストップ。そろそろ冗談には聞こえなくなっちゃうんで」


 冗談ではなく、かなり本気で話したのだが……。冗談の本気の使い分けは、なかなか難しい。


「そろそろ、この退屈な任務も完了だな、瀬尾」


 灰島がそう言ったのは、彼の有休がそろそろ終わり、完全に退職する日を迎えるから。


「……本当に辞めるんだな、ファントム」


「あぁ、その名前を呼ぶ人間もいなくなるだろう」


 それが望みなのだが、この少しばかり後ろ髪を引かれるような感覚は何だろうか? 懐かしむようないい思い出など、あるはずもないのに……。


 軽い運動が終われば、いったん部屋に戻りシャワーを浴びる。それから、8時前にはセグレトへ到着。重い木の扉を開けると、焙煎された豆の香ばしい匂いがふわりと鼻をかすめる。午前中のお客はほとんどが常連で、マスターの馴染み客だ。


「昨日病院で検査でさぁ、今度は高血圧だってさ」


 カウンター席の指定席に座る大貫さんは、高血糖に続いて高血圧まで指摘され、げんなりしながらコーヒーを口にする。マスターが相槌のように小さく頷く隣で、灰島はカップを磨く。


「そうそう、商店街の銀行で振込詐欺があったって」


「そうらしいねぇ。お互い、引っかからないように気を付けないとね」


 なんてことのない世間話が、店の中に溢れている。コーヒーを淹れる音、食器が触れ合う澄んだ音、そしてカウンターの向こうで静かに微笑むマスター。それがセグレトの朝の光景だ。


 昼にはその雰囲気は一変する。タクシーの運転手や近所の営業マンたちが、日替わりランチのナポリタンを求めてやってくる。


「最近は深夜が全然駄目で……。流しても誰も乗ってこないんだから、参るよ」


「うちの部長、また『経費削減』の一点張りでさぁ。残業代を出さないぞって言われてさぁ……」


 仕事の愚痴や景気の溜息が、ケチャップの匂いと一緒くたになって店内に漂う。マスターは黙々とフライパンを振り、灰島が隣で次々と皿をさばいていく。その活気が、午後の仕事へ向かう男たちの束の間の休息であり、エネルギーとなっていた。


 そして夕方。西日が差し込み、店内の空気がオレンジ色に染まる頃、セグレトは少しばかりにぎやかになる。


 灰島目当ての学校帰りの学生たちが、きゃっきゃっと言いながらクリームソーダを前に話をしたり、テストの答え合わせをしていたり。また仕事を終えた女性たちが、ケーキセットを囲んで楽しげにおしゃべりをしていたり。待ち合わせに使うカップルの、どこかそわそわした空気も混じる。


 こんな毎日をどのくらい過ごしただろうか。


 今日もそんな一日を、何事も無く終える予定だったのに──。


 カラーン……。


「ただいま~! お爺ちゃん、バイトに来たよ~!」


 やってきたのは、学校帰りの玲奈だ。しかも今日は制服を着ていたりする。そう、彼女はまだ高校生で、部活が終わるとたまにここに現れる。


「そんなこと言って、全部灰島さんに押し付ける気だろう?」


 言い当てられて、玲奈はぺろりと舌を出す。


 そんな彼女の後ろ、一つの小さな影が動いた。


 カラーン……。


 また、来客を告げる鈴の音が響く。一番驚いたのは玲奈だろう。なにせ、背後を取られたのだから。そして次に驚いたのは、灰島だった。


「……お前」


 小さな影が動く。年は10歳くらいだろうか? 長い髪が揺れて、小さな唇が嬉しそうに開く。


「パパ!」


 その場にいた全員の時間が、ぴたりと止まった。


 玲奈は、目を白黒させながら、目の前の小さな少女と、いつもポーカーフェイスの灰島を交互に見る。


「え、え、え? はい、灰島さん!? 隠し子!? いつの間に!?」


「隠し子ではない」


「うんうん、別れた奥さんの子供かな? よくここまで来たねぇ。ミルクでも飲むかい?」


 玲奈とは対象に、マスターは大人の対応で少女を椅子に座らせる。


「いや、妻と別れても」


「え? 奥さんいるの!? ってか、お嬢ちゃん何歳!? そして灰島さんは何歳なのぉ!?」


「玲奈、落ち着きなさい」


「ミルクよりもカフェオレがいいわ」


「もう店は閉めたんだ、わがままを言うな、ユキ」


「そうか、ユキちゃんていうんだね」


「えぇ!? ガチで子供!? そうなの!?」


「いや、だから俺の子というわけでは」


「それじゃミルクたっぷりのカフェオレにしようね」


「マスター、甘やかさないように」


「子供じゃん! 完全子供じゃん!!」


 完全、カオスである。


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