煙草と恋と、灰色の空
ミスターチェン(カクヨムの姿)
第1話 火をつけたのは、君
昭和四十年代、梅雨の終わりの午後。駅前の喫茶店『銀鈴』の窓辺では、
湿った舗道の反射が曇ったガラスに滲んでいた。細い路地に面したその店は、
丸いドアベルがちりんと鳴るたびに、常連たちの静かなまなざしが動くような、
そんな場所だった。
レコードから流れる甘いジャズが、タイル張りの床に染み込んでいくように響き、煙草の煙が天井近くでゆるやかに混ざり合っていた。時折、ブレンドコーヒーの香りと、灰皿に残る煙草の匂いが混ざり、どこか懐かしいような、
胸の奥をくすぐる匂いが漂っていた。
青年・高木透は、都内の出版社に勤める編集者だった。原稿に追われ、せわしない日々を過ごすなかで、この喫茶店だけは彼にとっての「静寂の時間」だった。
黒い革靴の先についた雨粒を足元のマットで軽く拭いながら、
窓際の席に腰を下ろす。グレーのスーツに紺のネクタイを締め、ポケットから古びたマッチ箱を取り出す。
「……濡れたな」
小さくつぶやきながら、彼は一本のハイライトを唇にくわえた。
指先に握ったマッチを擦る音が、湿気を帯びた空気の中でかすかに弾ける。
向かいに座るのは、白いブラウスに水玉模様のスカーフをふわりと結んだ
女性――佳子(よしこ)。栗色の髪は低い位置でひとつに結ばれ、耳の横で
小さく揺れるイヤリングが、彼女の呼吸に合わせて光っていた。
「ハイライト、吸うんですね」
「ええ。父の匂いを思い出すんです。シャツのポケットには、いつもこれが入ってたから」
そう言って、佳子は自分のマッチで透の煙草に静かに火をつけた。
指先の動きは、まるで小さな秘密を共有するように、慎ましやかで、それでいてどこか親密だった。
紫煙の向こうに浮かぶ佳子の横顔に、透は言葉を失っていた。
何も決まっていない、それでも始まってしまった何かが、煙草の香りとともに静かに漂っていた。
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