第6話「偽りの恋は、灰色の仮面」
朝露が窓硝子を濡らす早朝、マリアは給仕の準備をしながら、新たな客人の到着を待っていた。
公爵令嬢セシリア・アルメリア・ベルベット。王都でも名高い美貌の持ち主だという。だが、馬車から降り立った彼女を見た瞬間、マリアは息を呑んだ。
セシリアの周りに漂う恋の色は、まるで濃霧のような灰色だった。それは今まで見たどの恋色とも違う、不自然で重苦しい色。
「初めまして、マリア。あなたがレオンハルト様のお気に入りの家政婦ね?」
セシリアの唇が優雅な弧を描く。だがその瞳は、氷のように冷たかった。
朝食の席で、セシリアは巧みにレオンとの会話を楽しんでいた。政治の話、経済の話、王都の噂話。どれも完璧な受け答え。だが彼女の恋色は、レオンに視線を向けるたびに、機械的に濃くなったり薄くなったりを繰り返すだけだった。
「レオンハルト様、今度の舞踏会ではぜひ、私と最初の一曲を」
セシリアが扇子で口元を隠しながら言う。その瞬間、灰色がわずかに震えた。計算された仕草、計算された言葉、計算された恋。
給仕を終えて厨房に戻ると、料理長のギュスターヴが心配そうに声をかけてきた。
「マリア、顔色が優れないが」
「いえ、大丈夫です。ただ……」
マリアは言葉を濁した。セシリアの恋色のことは、誰にも言えない。
午後、マリアは久しぶりに「虹の蔵」を訪れた。薄暗い店内で、老婆の店主がいつものように微笑んでいる。
「おや、困った顔をしているね」
「あの……偽りの恋を見抜く方法はありませんか?」
老婆は棚の奥から、手のひらに収まるほどの小さな手鏡を取り出した。銀の縁取りに、虹色の装飾が施されている。
「真実の恋を映す鏡さ。本物の恋なら、鏡の中でも色が見える。偽物なら……」
「何も映らない、ですね」
マリアは鏡を大切に懐にしまった。
夕刻、セシリアが図書室でレオンと二人きりになっているのを見かけた。扉の隙間から、会話が聞こえてくる。
「レオンハルト様、私たちの結婚は両家にとって最良の選択です。愛情など、後からついてくるものでしょう?」
「……そうかもしれませんね」
レオンの声は、いつも通り感情を感じさせない。マリアの胸が、きりきりと痛んだ。
夜、セシリアの部屋に夜食を運ぶついでに、マリアはさりげなく鏡を花瓶の横に置いた。セシリアは鏡に気づくと、興味深そうに手に取った。
「あら、素敵な鏡ね。どこで?」
「街の古道具屋で見つけたんです。恋する人の心が映るという言い伝えがあるそうで」
セシリアが鏡を覗き込む。そこには、彼女の美しい顔だけが映っていた。恋色は、何も映らない。
一瞬、セシリアの表情が凍りついた。
「……馬鹿げた迷信ね」
鏡を乱暴にテーブルに置く。だが、その手がかすかに震えていることに、マリアは気づいた。
「恋なんて、権力を得るための道具よ。感情に流される人間は愚か者だわ」
セシリアの声には、今までにない棘があった。灰色の恋色が、激しく渦を巻いている。
「でも……」マリアは静かに言った。「あなたの本当の恋は、まだ見つかっていないだけかもしれません」
セシリアが顔を上げる。その瞳に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「何を言っているの? 私は……私は完璧に……」
言葉が途切れる。灰色の恋色が、一瞬だけ透明になった。その奥に、ほんのわずかだが、別の色が見え隠れする。
「失礼しました。おやすみなさいませ」
マリアが部屋を出ようとしたとき、セシリアの声が追いかけてきた。
「待って。その鏡……置いていって」
振り返ると、セシリアは窓の外を見つめていた。月光が彼女の横顔を照らし、灰色の恋色を銀色に変えている。
「私、本当の恋なんて知らないの。物心ついた時から、結婚は政略の道具だと教えられてきた。恋をする方法なんて、誰も教えてくれなかった」
マリアは静かに鏡をテーブルに置いた。
「恋は教わるものじゃありません。感じるものです。いつか、きっと……」
セシリアは寂しげに微笑んだ。その時、灰色の恋色の中に、ほんの一瞬、薄い桜色が混じったような気がした。
部屋を出て廊下を歩いていると、書斎から出てきたレオンと鉢合わせした。
「こんな時間まで仕事ですか」
「……セシリア嬢と話していたのか」
「はい。夜食をお持ちしました」
レオンは何か言いかけて、口を閉じた。そして、いつもの無表情に戻る。
「彼女は優秀な女性だ。公爵家との縁組みは、領地にとっても有益だろう」
「……そうですね」
マリアは俯いた。自分の恋色が、切ない青に染まっていくのを感じながら。
「だが」
レオンの声に顔を上げる。彼は窓の外、セシリアの部屋がある方角を見つめていた。
「優秀であることと、共に生きることは、別の話だ」
その横顔に、マリアは初めて見る表情を見た。それは、迷いだった。
翌朝、朝食の席でセシリアが言った。
「レオンハルト様、しばらく滞在を延ばしてもよろしいでしょうか。この屋敷の雰囲気が、とても気に入りましたの」
レオンが頷く。セシリアの灰色の恋色は、相変わらず彼女を包んでいる。だが、その灰色は昨日よりも薄く、そして、どこか柔らかくなっていた。
給仕をしながら、マリアはそっと微笑んだ。偽りの仮面の下に隠れた本当の心が、少しずつ顔を出し始めている。
セシリアが持っていた真実の鏡には、まだ何も映らない。でも、いつか。いつかきっと、彼女の本当の恋色が、そこに映る日が来る。
マリアはそう信じていた。たとえそれが、この屋敷の誰かへの恋だったとしても。
窓の外で、小鳥が恋の歌を歌い始めた。朝の光が、灰色の恋色を優しく包み込んでいく。
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