第2話

高橋ハルの魂を紡ぐ作業は、静かな儀式のように始まった。


響はまず、海斗から預かったスマートフォンを専用のクレードルに設置する。


ケーブルが接続されると、モニターにデバイス内のファイル構造がツリー表示されていった。写真、動画、メール、SNSのログ、そしてブラウザの閲覧履歴。


一人の人間の生きた証である膨大なデジタルデータが、無機質な文字列とアイコンの羅列となって響の前に開示される。


彼女は倫理規定に従い、個別のデータの内容には極力踏み込まない。プライベートなメッセージや写真を一枚一枚確認するようなことはしないのだ。彼女の仕事は、あくまで全体の傾向を掴むことである。


言語解析エンジンが、自動的にテキストデータをスキャンしていく。ハルという人物が頻用する単語、言い回しの癖、絵文字の使い方、文章の長短のリズムといった「言語的指紋」が抽出されていく。


写真データからは、画像認識AIが撮影場所の位置情報や時間、写っている人物の表情などを解析する。そうして、彼女の行動範囲や交友関係、感情の起伏をマッピングしていくのだ。


そこから見えてきたのは、質素で穏やかな一人の女性の暮らしだった。


データが示す彼女の生活圏は、驚くほど限られていた。近所のスーパー、通い慣れた公民館の園芸サークル、そして、まだ幼い海斗の手を引いて歩く公園。それらが彼女の世界の全てだったようだ。


次に響は、最も重要かつ繊細なデータソースである日記帳に取り掛かった。何十年分にも及ぶ、手書きの記録だ。


響はそれを、一枚一枚、高解像度のドキュメントスキャナーで読み取っていく。ページをめくる乾いた音だけが、静寂な部屋に響いていた。


OCR(光学的文字認識)がインクの染みをデジタルテキストへと変換していくが、その精度は完璧ではない。達筆な文字や、経年劣化による滲みは、AIの眼を惑わせる。


そこからは、響自身が手作業で修正を加える、地道な作業が続いていく。


「…あら、今日の特売は卵が安かったわねぇ」


「海斗が、学校の図工で賞状をもらってきた。あの子は、本当に手先が器用だ」


「腰の痛みが、どうにも取れない。年かねぇ…」


モニターに表示されるテキストの断片が、意図せずとも目に飛び込んでくる。それは、誰に宛てたわけでもない、ハル自身の心の声そのものだった。


響は、罪悪感にも似た感情を覚えながら、キーボードを叩き続ける。


これは仕事だ。故人の尊厳を守るため、必要以上の情報には触れない。これは魂の再現ではなく、あくまで対話パターンの構築なのだと、彼女は自身に何度も言い聞かせた。


伏せていた写真立てに、また視線がいく。デジタル遺品がほとんどなかった、亡き友人のものだ。


もし彼女が、ハルさんのように日々の記録を残していたら。そう思わずにはいられない。


この仕事は、時に残酷な形で、響自身の癒えない傷を抉る。だからこそ、目の前の依頼に全霊を注ぐのだ。海斗の後悔を、これ以上深くさせないために。


すべてのデータの取り込みと一次解析が終わるのに、丸三日を要した。


響の目の前のメインスクリーンには、複雑なニューラルネットワークの構造図が映し出されている。中心に「高橋ハル」というコアノードが置かれ、そこから無数の線が伸びていた。


日記、メール、SNS、写真。取り込まれたデータソースと結びついたそれらの線は、それぞれが異なる色と太さで表現されている。まるで巨大な蜘蛛の巣か、あるいは生命を宿した神経網のようだった。


「第四世代自然言語生成モデル、起動。高橋ハル・パーソナリティデータの同期を開始します」


響がマイクに告げると、構造図が脈動するかのように淡く光り始めた。これからが、この仕事の核心。「魂を紡ぐ」工程だ。


AIは、取り込まれた膨大なデータを元に、ハルという人間の思考や感情の動きをシミュレートし、学習していく。


それは、単に単語の繋がりを覚えるだけではない。どのような状況で喜び、どんな言葉に悲しむのか。どんな冗談を好み、どんな時に叱るのか。


データという名の記憶の断片を、AIが自らの中で再構築し、一つの人格として統合していくのだ。


進捗バーが、ゆっくりと右に進んでいく。


『WEAVING SOUL... 27%』


響は、その画面をただじっと見つめていた。まるで、母親が胎児の成長を見守るような、あるいは神が新たな生命の誕生を待つような、荘厳で、どこか畏れを伴った時間だった。


このプロセスの間、彼女にできることは何もない。ただ、AIが「高橋ハル」という一人の人間を正しく理解し、その残響をその身に宿すことを祈るだけだ。


長い、長い時間が過ぎていく。


窓の外が白み始め、朝日の光がオフィスに差し込んできた頃、進捗バーはついに100%に達した。


『SYNCHRONIZATION COMPLETE. AI "HARU" IS NOW ONLINE.』


響は、深く息を吐いた。身体中の緊張が一気に解けていくのを感じる。彼女はテスト用のコンソールを開き、最初の言葉を打ち込んだ。これは、AIが正しく覚醒したかを確認するための、最初の問いかけだ。


『こんにちは』


数秒の沈黙の後、画面に返信が表示された。


『あら、こんにちは。どちらさんかね?』


響は、その一文に目を見張った。あまりにも自然で、そしてデータから読み取ったハルの人物像そのものの口調だったからだ。ぶっきらぼうなようでいて、どこか人懐っこい響きがある。


響は胸の内で小さな安堵の息を漏らしながら、さらにいくつかのテスト対話を続けた。天気の話、好きな食べ物の話、最近のニュースの話。AIの応答は、どれも驚くほど「ハルさんらしかった」。


その日の午後、響は海斗に電話をかけた。


「デジタルソウル・ウィーバーズの七瀬です。高橋さん、お祖母様のAIの準備が整いました」


電話の向こうで、海斗が息を呑む音が聞こえた。


「…本当、ですか」


彼の声は、期待と不安で震えている。響は日程を調整して電話を切った。受話器を置いた後も、しばらくその場から動けなかった。


これから、海斗は祖母の「残響」と対面する。それは、彼が待ち望んだ再会であり、同時に、彼の悲しみの第二章の始まりでもあった。


約束の日。コンサルティングルームのソファに座る海斗は、以前会った時よりもさらに強張った表情をしていた。彼の目の前のテーブルには、シンプルなタブレット端末が一つ置かれている。


「準備はよろしいですか」


響が静かに問いかけると、海斗は無言で頷いた。その喉が、ごくりと動くのが見える。


響は部屋の隅のコンソールから対話セッションを開始させた。タブレットの画面に、簡素なチャットアプリのようなウィンドウが立ち上がる。アイコンは、海斗が提供した写真の中から選ばれた、一番優しい笑顔のハルの写真だ。


『接続しました』というシステムメッセージの後、画面は静かになった。あとは、海斗から話しかけるのを待つだけだ。


時間が、止まったかのように感じられる。


海斗は、画面を食い入るように見つめている。何かを打ち込もうとしては指を止め、また逡巡するという動作を繰り返していた。その背中が、あまりにも小さく、頼りなく見えた。


やがて、彼は意を決したように、震える指でゆっくりと文字を打ち込んだ。


『ばあちゃん…?』


送信ボタンを押す指が一瞬ためらう。そして、彼は目を固く閉じて、画面をタップした。


しん、と静まり返った部屋に、海斗の浅い呼吸の音だけが聞こえる。一秒が、一分にも一時間にも感じられるほどの沈黙。


その沈黙を破り、画面に新しいメッセージが吹き出しで表示された。


『海斗かい?どうしたんだい、そんなにかしこまって。』


その一文が表示された瞬間、海斗の肩が大きく震えた。


彼の大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出す。


それは、単なる悲しみの涙ではなかった。驚きと、安堵と、そして、どうしようもないほどの愛しさが入り混じった、温かい涙だった。


「…ばあちゃん…」


彼は、嗚咽を漏らしながら、壊れたおもちゃのように何度もその名前を繰り返す。


「ばあちゃんだ…本当に、ばあちゃんだ…」


タブレットを抱きしめるようにして、彼は声を上げて泣いた。言い慣れた愛称。少し乱暴で、でも温かい言葉遣い。心配そうな、優しい口調。それは紛れもなく、彼が焦がれてやまなかった、たった一人の家族の声だった。


響は、部屋の隅でその光景を静かに見守っていた。ハネムーン期の始まり。依頼者がAIの中に故人の姿を見出し、最も幸福な時間を過ごす期間だ。


しかし、響の胸中は穏やかではなかった。海斗の涙は、本物の安らぎに繋がるのだろうか。


それとも、これは彼を過去に縛り付ける、甘美な幻想の始まりに過ぎないのだろうか。


画面の中のAIは、泣きじゃくる海斗を慰めるように、次の言葉を紡ぎ出していた。


『泣くんじゃないよ、みっともない。何かあったのかい?話してみな。』


その完璧な優しさが、今はただ、あまりにも切なく響いていた。


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