22話 開通する意思
1950年 3月5日
大
突きの衝撃。
自分が後方へと倒れ込んでいくのを、真言はどこか他人事のように感じていた。
──これは師匠の本気でもなんでもない。ただ、生身の人間相手にかけていた制約を少しばかり取り払っただけだ。
『約束』。
まだ幼かった真言が、師と交わしたものだ。
──『師匠は、いつか自分が殺してみせる』
そのときは、努力さえすればいつかは約束を叶えられると信じていた。大杉真言が人生の目標に定めた、守るべき約束。
あれだけ大事に思っていたものを、なぜ思い出せなくなっていたのか。
なぜいま、それが走馬灯のごとく思い返されたのか。
わずかにもやが晴れたと思えば、すでにそれ以外の記憶への道筋は深い深い霧に覆われてしまっていた。
『約束』をした瞬間のことも、その経緯も思い出せない。
まるで他人の日記を覗いているかのように。ただ、結果だけが鮮明に想起された。
わからないことばかりだ。
何度目かに、擬蟲の意志を感じた。それはこれまでのどの感情よりも単純で明快で、理解しうるものだった。真言自身が感じているものと全く同じものだ。
──とにかく、ここで死ぬわけにはいかない。
「ほう」
起き上がった真言を
損傷した鎧殻はすでに塞がり、体内の傷も急速に再生しはじめている。
真言の背中からは、擬蟲が這い出ていた。
それは坂之上卿を認識すると、すさまじい速度で顎肢を叩き合わせた。何千回毎秒という周波数だ。それに答えるようにして、坂之上卿の擬蟲も同じ行動をした。周囲に不快な衝突音が響き渡る。
「何ぞ……?」
坂之上卿は困惑して、自らの擬蟲に怪訝な視線を向けている。
四百年におよぶ彼女の経験の中にもないことが起こっているのだ。
だが、これがなんであるか、周りで見ている者には想像がついた。
『対話』だ。彼らは、同胞と意思の疎通を行っている。擬蟲の言葉で、情報を交換しているのだ。
擬蟲たちはしばらくそれを続けたかと思えば、おもむろにやめた。
じっと静止している真言の擬蟲とは対極に、坂之上卿の擬蟲は『対話』を終えるとすばやく宿主の体内へと戻っていった。
「師匠……申し訳ございません」
真言は言った。
「何がだ」
「恥ずかしながら、『約束』を忘れておりました」
「…………そうか」
「ですが……今、おぼろげではありますが思い出しました」
その言葉を聞いた坂之上卿は、安堵と喜びが同じだけ混ざった表情を浮かべた。
「まだ忘れていることも、多いようですが……」
奇妙な感覚だ。
擬蟲の思考回路と、自分自身の思考回路がどこかで繋がったような。これまで詰まっていた通路がいきなり開けたかのような開放感を覚えている。それと同時に、まだまだ塞がっている通路が存在することも直感的にわかった。
真言は擬蟲の感情を、これまでよりも明確に理解できるようになっていた。
どうやら、仲間と出会えたことによる安心を感じているようだ。彼らが何を話していたかまではわからないが、今の接触がそれなりに友好的なものであったのはわかる。
──擬蟲の意志を理解することと、忘れている記憶を取り戻すことに、なにか相関関係があるのか。
それが事実であればこれまでにない進展だ。
擬蟲が何を求めているのかを理解することに、一歩近づいたのは間違いない。
「今の俺はあの日と違い、師匠と同じ土俵に立っています」
「は、言いよるわ……!」
坂之上卿は、喜色を満面にあふれさせて感極まった様子だ。
そのまま勢いよく太刀を振る。鋭い風切り音が大きく鳴った。
刃を上に向け柄は側頭部。霞の構えだ。
攻撃の意志は感じられない。それが何を意味するか、真言はよく知っている。
『好きに打ってこい』の意だ。
刀。
生化研に持ち込んだまま行方が知れぬ愛刀を想起する。
内なる擬蟲が、その記憶を読み取ってくれた。宿主が──真言が何を望んでいるのかを察し、求められていることを理解しようとしているのが感じられた。
すると右腕の鎧殻が、泥のように柔らかく崩れた。
そこから零れ落ちた赤黒く粘性のある液体が、細長く伸びていく。
それが刀の形をとるまでに、一秒とかからなかった。
柄から切っ先までの硬化を終えると、その『生体刀』とでも呼ぶべき一振りは、右腕の鎧殻から自然と脱落して真言の手に収まった。
「──っ!」
上段から袈裟に振り下ろす。
機械のごとき精密さで必要最低限の動きをした坂之上卿の太刀が、その一閃を迎え撃った。一合。坂之上卿が弟子から受けたどの一撃よりも重く、強い殺意が乗せられたものだった。
それを受けた太刀の刃が押し込まれた。真言が初めて目にする光景だった。
守勢に入った師の刃が、攻撃を受けて動いたのだ。自分のなしたこととはいえ、信じがたいことだった。
坂之上卿の顔に、高揚が浮かぶ。
数世紀のあいだ求め続け、ついに手に入れたと思った矢先に横から奪われたもの。それが取り返せるかもしれない。目の前に、今この瞬間、手の届く距離にある。
二十四年ぶりの興奮が彼女の理性を融かした。
──いかん。
身体が思わず動いてしまった。
だが自制しようと考えたとき、彼女の身体はすでに攻撃を終えていた。
「ぐ、うっ──!」
それは流麗な四連撃だった。
防御することさえできなかったほど速やかで間隙のない連撃。
坂之上沙羅双樹が出しうる本気の片鱗だ。
右の袈裟斬り下ろし、からの正中斬り上げ。そして左の肘鉄。
いずれも、生身の人間が喰らえば肉塊と化すだろう威力を備えている。
自動車の衝突に匹敵する衝撃を受けて後ずさった真言の胸元に向けて、四連撃目──音速を超える突き──が放たれた。
「は。やはり、儂のより行儀がよいの」
真言の擬蟲が、太刀の刃がその宿主へと到達することを防いだのだ。擬蟲の顎肢はぎちりと鈍い音を立てて、刃へと食い込んでいる。
すでに三連撃を受けた真言の胸部鎧殻には、大きな亀裂が生じていた。この突きが命中していれば、それは擬蟲そのものにも達し、絶命せしめていたかもしれない。
擬蟲の必死さが真言にまで伝わってくるほどだった。明確な恐怖と焦りが、自分ではない心から流れ込んできている。
真言は飛びずさり、中段に構えて師の様子をうかがった。
だが、すでに攻撃の意志はないようだ。坂之上卿は満足げに真言を見つめると、口を開き──
爆発。爆炎が坂之上卿の上半身を包んだ。
間もなく爆発音と衝撃波が到達して真言の全身を揺らす。
飛び散った破片や土が鎧殻に当たるのが感じられる。
周囲に生身の人間がいたならば、即死を免れないであろう規模の爆発だった。
その直前に、音速よりわずかに遅いていどの速さで砲弾が飛来してきていたのを、真言の触角は感知していた。発射地点もすでにわかっている。真言はその方向を向いた。
「西条……!」
いつの間にか起き上がっていた西条が、十式擲弾砲を肩に担いでその照準を坂之上卿に向けている。すでに次弾を装填し終えているようだ。
鎧殻に覆われた指が引き金を引くのが見えた。二発目の発砲音が即座に続く。
「のう」
二発目が目標に命中することはなかった。
坂之上卿は向かってきた弾頭に太刀の切っ先を添わせ、その針路をわずかに変えた。砲弾は坂之上卿から数十センチの位置を飛び去っていき、やがて何もない地面へと着弾した。
二度目の爆発。
爆風を受けた坂之上卿の長髪がなびく。
「脳なしの蟲を憑かせた雑兵はともかくとして、こんなもので儂をどうこうできると本気で思うほど愚かではあるまい」
爆音が収まった後、坂之上卿は𠮟るようにして言った。
焼け焦げた着物が風で散り、その下に巻かれていたさらしが露出している。腕や顔などの皮膚には痛々しい火傷が生じていたが、それも刻一刻と再生しているようだ。
「儂はいま、すこぶる機嫌がよい。この五年で一番な。であるから許すが、そうやって
「何を……?」
西条の声色には、困惑だけではなくわずかな怒りが含まれていた。
「
釈尊以前の七仏が共通して語ったという、仏道の基本となる教えだ。
──すべての悪を為さず、すべての善を為し、自ずからその心を清くせよ。
「いつか己に恥じる羽目になるぞ。他人に恥じるのよりよほど──」
坂之上卿はそこまで言うと突然、何かに気づいたように押し黙り、やがて恥ずかしそうにして西条を見た。
「なるほど。儂が浅慮だったか。これだから
突然、坂之上卿の全身に無数の弾丸が命中した。着弾音と発砲音が連続する。
発射位置の方向──近衛軍兵舎の方角から、いくつものエンジン音が聞こえる。
「近衛軍か……!」
爆発音を聞きつけてきたのだろう。近衛軍の戦闘装甲車両と、それに並走する強化人間がこちらに向かってきている。装甲車両に備え付けられている重機関銃が、坂之上卿めがけて対強化人間徹甲弾を連射した。
感嘆すべき精度で、弾雨が坂之上卿の身体に襲い掛かる。
坂之上卿は鬱陶しそうに太刀を振り、自身に命中しそうな銃弾を片端からはたき落としながら、真言へと向き直った。
「真言! 秋吉は大陸に逃げる腹積もりよ。天姫……さまと共にな。そう刀麻呂に伝えておけば、悪いようにはならんであろう! それと──身体には気を付けい!」
「師匠!」
巧みな動きで弾幕を回避しながら坂之上卿が一歩を踏み出すと、その身体は強烈な加速で遠ざかっていった。数秒後には時速百キロを超え、その姿が見えなくなるまで、ついに誰も追いつけなかった。
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