第八話:過去は材料、今は現実


月曜日の夜。




垣原瞬は、自室のベッドに腰掛け、スマートフォンの画面を、祈るような気持ちで見つめていた。




送信されたメッセージ。




『話、聞かせてくれて、ありがとう。俺も、もっと、前原のこと、知りたい』




それは、彼の、生まれて初めての、真摯な降伏宣言だった。




時間は、まるで粘性を帯びたかのように、ねっとりと、ゆっくりと流れる。



一分が、一時間にも感じられた。



部屋の静寂の中で、壁にかかった時計の秒針が、カチ、カチ、と進む音だけが、やけに大きく響く。



瞬は、自分の心臓の音も、その秒針と同じリズムを刻んでいるような気がした。




もし、このメッセージを無視されたら。




もし、「もう遅いよ」と返ってきたら。




あらゆるネガティブな可能性が、彼の脳裏をよぎっては、泡のように消えていく。




その時、画面が、ぽっ、と静かに光った。




心臓が、喉元までせり上がってくる。




トーク画面に、彼女の名前と、新着メッセージを告げる「1」の数字が浮かび上がっていた。




震える指で、それを開く。




『うん。私も、瞬くんのこと、もっと知りたい。ありがとう。』




その短い文章を、瞬は、何度も、何度も、読み返した。




「私も」。




そして、最後の、「ありがとう」。




それは、彼の差し出した、不器用な白旗を、彼女が、そっと、両手で受け取ってくれた証だった。




全身から、ふ、と力が抜けていく。




気づかないうちに、ずっと止めていた息を、大きく吐き出した。



その息は、熱く、そして、少しだけ震えていた。




瞬は、スマートフォンの画面を胸に抱きしめるようにして、ベッドの上にごろりと転がった。




窓の外では、細い月が、雲の切れ間から、地上を優しく照らしている。




もう、怒りも、屈辱も、彼の心にはなかった。




ただ、夜の静けさのような、穏やかで、そして、どうしようもなく温かい感情だけが、そこにあった。




翌日、火曜日の朝。




世界は、昨日までとは、まるで違って見えた。




梅雨の中休みに訪れた、完璧な晴天。




空気は、週末の雨に洗われて、どこまでも透明だ。




通学路の脇に立つクスノキの葉は、一枚一枚が、朝露を弾いて、ダイヤモンドのように輝いている。




遠くの線路を渡る電車の音が、いつもよりクリアに聞こえた。




彼の心も、この空と同じだった。




昨日まで心を覆っていた、どす黒い雲は、跡形もなく消え去り、そこには、ただ、静かで、穏やかな青空が広がっている。




教室の扉を開けると、いつもの喧騒が彼を迎えた。



だが、その音も、もう、彼を苛立たせることはなかった。




彼は、自分の席に向かいながら、彼女の姿を探した。




いた。窓際の席。彼女は、結衣と楽しそうに話している。




目が合った。




瞬は、どうすればいいかわからず、少しだけ、ぎこちなく会釈をした。




すると、美影は、花が咲くように、ふわり、と微笑んだ。



それは、いつもの太陽のような笑顔とは、少しだけ違っていた。



そこには、ほんの少しの、照れくささと、そして、確かな安堵の色が滲んでいた。




その微笑みだけで、瞬は、救われたような気がした。




二人の間には、まだ、少しだけ、ぎこちない空気が流れていた。




それは、激しい嵐が過ぎ去った後の、地面がまだ固まりきっていない、そんな状態に似ていた。




昼休みも、放課後も、以前のように軽口を叩き合うことはできず、どこか、お互いの距離感を測りかねているような、そんな時間が過ぎていった。




金曜日の放課後。




ほとんどの生徒が帰り支度を終え、教室ががらんとし始めた頃、瞬は、意を決して美影の席へと向かった。




「あのさ、前原」




「ん?」



美影は、ノートを鞄にしまいながら、きょとんとした顔で瞬を見上げた。



「この間の……猫カフェ。もし、まだ、興味あるなら……今度の週末、行かないか?」



その言葉は、自分でも驚くほど、不器用で、そして、緊張していた。




それは、もはや「テスト」ではない。




純粋な、彼女への「誘い」だった。




美影は、一瞬、大きく目を見開いた。






そして、次の瞬間には、顔中を、満開の笑顔で輝かせた。




「……うん!行く!」




その週末。




二人は、電車に揺られて、隣町の駅へと向かっていた。




ガタン、ゴトン。



規則正しい、心地よいリズム。




窓の外では、住宅街の風景が、ゆっくりと後ろへ流れていく。




線路脇に咲く、名前も知らない黄色い花が、風に揺れていた。




車内は、土曜日の昼下がりらしく、多くの人々で賑わっていた。





だが、二人の周りだけ、見えない壁があるかのように、静かで、穏やかな空気が流れていた。




猫カフェは、商店街の裏路地にある、小さなビルの二階にあった。




扉を開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴る。




店内は、コーヒーの香ばしい匂いと、日向のような、温かい匂いが混じり合った、不思議な空間だった。壁一面の本棚、柔らかな日差しが差し込む大きな窓、そして、思い思いの場所で、猫たちが、気ままに、しかし優雅に、時間を過ごしている。




「わ……すごい……」




美影は、目をきらきらさせながら、店内を見回している。




その姿を見て、瞬の心も、自然と和んでいく。





二人は、窓際のソファ席に座り、それぞれドリンクを注文した。




すぐに、人懐っこい茶トラの猫が、美影の足元にすり寄ってきた。




「あ、こんにちは」




美影は、しゃがみこんで、その猫の喉を、優しく撫でてやる。




猫は、気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロ、と喉を鳴らし始めた。




その光景は、一枚の絵のように、完璧に調和していた。




会話は、まだ、少しだけ、途切れがちだった。




天気の話。




学校の話。




目の前にいる、猫の話。




二人は、まるで、壊れやすいガラス細工を扱うように、慎重に、言葉を選んでいた。




しばらくして、瞬は、勇気を振り絞って、ずっと胸の内にあったことを切り出した。




きっかけは、ソファの隅で丸くなって眠っている、一匹の黒猫だった。




その、満ち足りたような寝顔を見ているうちに、自然と、言葉がこぼれたのだ。




「……俺さ、いつも、こうなんだよな」




「え?」




「何ていうか……最初は、すごく、夢中になるんだ。部活でも、バイトでも。でも、慣れてくると、すぐに、どうでもよくなっちまう。それで、結局、中途半半端に投げ出して、後で、すげえ後悔する。いつも、その繰り返しだ」




それは、彼の、恋愛パターンそのものでもあった。




里奈の名前こそ出さなかったが、その言葉には、過去の自分への、深い自己嫌悪が滲んでいた。




美影は、茶トラの猫を撫でる手を止め、じっと、瞬の話に耳を傾けていた。




彼女は、瞬を、決して急かさなかった。




瞬は、言葉を続ける。




「後悔するって、わかってるのにな。なんで、やめられないのか、自分でも、よくわかんねえんだ」




言い終えると、気まずい沈黙が流れた。




言ってしまった、と瞬は思った。




こんな、重い話。




せっかくの、やり直しのデートなのに。




しかし、美影の反応は、またしても、彼の予想を超えていた。




彼女は、非難も、同情も、安易な励ましもしなかった。




ただ、窓の外を流れる雲を、しばらく、ぼんやりと眺めた後、静かに、こう言ったのだ。




「後悔かあ。厄介な、お友達だよね」




その言い方が、あまりにも穏やかだったので、瞬は、少しだけ、拍子抜けした。




「でもね、瞬くん」




美影は、瞬の方へと向き直った。




その瞳は、午後の柔らかな光を吸い込んで、琥珀色に輝いている。




「それって、『あの時の瞬くん』がしたこと、でしょ?もう、過去のこと。今の瞬くんが、どうすることもできない」




「……まあ、そうだけど」




「“もうないもの”を、今の自分のところに持ってきて、それを材料にして、悩んだり、苦しんだりするのって、世界で一番、疲れちゃうことだと思うな」




その言葉は、まるで、固く絡まった知恵の輪が、す、と解けるような感覚を、瞬にもたらした。



「もうないもの」を、材料にする。




そうだ。




俺は、ずっと、そうしてきた。




終わってしまった過去の失敗を、何度も何度も、頭の中で再生しては、「俺はダメなやつだ」というレッテルを、今の自分に貼り付けてきた。




美影は、優しく微笑んだ。




「『あの時の瞬くん』が何をしたかは、もう、変えられない事実。



でも、『今の瞬くん』が、これから、何を選ぶか。




何を、どう行動するか。



本当に『リアル』なのって、そっちだけじゃないかな?」




その言葉は、決して、過去の過ちを許すものではない。




だが、それは、過去に縛られ続けることから、瞬を、優しく、しかし、はっきりと、解放してくれる言葉だった。



彼は、目の前の少女を見た。




美影は、もう、その話は終わりとでも言うように、再び、猫と戯れ始めていた。




子猫の肉球を、そっと、自分の指でつついている。




その横顔は、何の悩みもない、無邪気な少女のものだった。




だが、瞬は、もう知っている。




その笑顔の裏に、どれだけの思慮深さと、強さと、そして、優しさが隠されているのかを。




恋、ではない。




好き、という言葉だけでも、足りない。




今、瞬が、彼女に対して感じているこの感情。




それは、おそらく、「尊敬」という言葉が、一番近いのかもしれない。




帰り道。




夕暮れの光が、街全体を、ノスタルジックなセピア色に染めていた。




駅の改札で、二人は向き合う。




「じゃあ、またな」




そう言って、背中を向けようとした瞬を、美影は呼び止めなかった。




今度は、瞬の方から、言葉を発した。




「……美影」




初めて、彼女を、下の名前で呼んだ。



その響きは、思ったよりも、ずっと、自然に口から出た。




美影が、少しだけ、驚いたように、瞬を見る。




「今日は、ありがとう。……あと、この間のことも」




「……」




「俺、お前のこと、何もわかってなかった」




「うん」




「だから、もっと、知りたい。お前のこと」




美影は、何も言わなかった。



ただ、今までで一番、嬉しそうな、そして、少しだけ、泣きそうな顔で、にっこりと、笑った。




その笑顔だけで、十分だった。




瞬は、彼女に背を向けると、自分のスマートフォンを取り出し、彼女のトーク画面を開いた。




そして、一言だけ、メッセージを打つ。



『気をつけて帰って』




送信ボタンを押す。




既読がつくのを、待つまでもない。




彼は、顔を上げた。




西の空には、一番星が、小さく、しかし、力強く、輝き始めていた。




心が、軽い。




こんなにも、世界が、鮮やかで、優しく、そして、希望に満ちて見えたのは、生まれて初めてのことだった。




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