捌章:小さく広い寄席
案内された先は、体育館だった。
床は木の板張り。ひどく広い空間。けれど、そこに寄席のような温もりも、舞台の灯りもなかった。
床には、体育座りをした子どもたちがひしめき合っている。
案内してくれた先生とは別の女性の先生が、どうやら今日の授業について説明しているらしい。
子どもたちの数は、おそらく百人ほどだろう。
──ここで噺をするのか。
高座なんて、もちろんない。
代わりに用意されていたのは、子どもたちの前に置かれた木製の台座と、その上に敷かれた座布団が一枚。
急ごしらえの、即席舞台。到底、芸のために設えられた場所じゃない。
けれど、そんな場所でさえ、俺にはふさわしい高座に映った。
体育館の後方にある入口から入ったこともあり、子どもたちの様子がよく見えた。
騒いでいるわけではない。だが、教師の話に耳を傾けている風でもない。
興味なさそうに友達とひそひそ話す声が、あちこちから漏れ聞こえてくる。
俺が入ってきたことなど、誰ひとり気づいていない。
「ほらー、そこの子たち。ちゃんと聞きなさーい」
時折、先生の声が体育館に響く。そのたびに声は一瞬だけ収まり、またすぐ元に戻る。──その繰り返しだった。
(落語を、ちゃんと聞いてくれるのか……?)
そんな疑念が、じわじわと胸の奥で水を張るように溜まっていく。
観客が小学生だからといって、俺の技量が試されないわけじゃない。
むしろ──どんな反応が返ってくるのか、まったく読めない分、怖さは増していた。
けれど、それでも、やる。
師匠の言葉を思い出す。
「小学生相手なら、失敗しても噺になる」
失敗したっていい。やれることをやるだけだ。
今日、俺がやる噺は古典落語の「寿限無」と「まんじゅうこわい」。
演目は、この二つに決めていた。
授業時間には限りがある。ましてや、小学生の一コマはせいぜい四十五分ほど。
事前に「多くても二本くらいでお願いします。時間が余ったら、質問や小話でも」と伝えられていた。
俺が子どもだったころ、小学校に来た落語家が披露してくれたのも、「寿限無」や「まんじゅうこわい」といった古典落語だった。
あのときの俺は、落語なんてひとつも知らなかった。
けれど、そこにいた噺家の声と仕草と間が、どうしようもなく面白くて──気づけば、前のめりになって聴き入っていた。
だからこそ、俺も古典落語を選んだ。それも、できるだけ小学生にもわかりやすく、楽しめる噺を。
今度は、俺がそれをやる番だ。
「あ、あの……そろそろ、大丈夫そうですか?」
案内してくれた若い女性の先生が、おずおずと声をかけてきた。
緊張が顔に出ていたのだろう。タイミングを見計らっていたような、やわらかい声だった。
「……はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。子どもたちに話している先生が合図してくれるので、そのあと前に出ていただければと思います」
「はい、わかりました」
隣にいた先生が、前方の教師に視線で合図を送る。
その意図を受け取った教師が頷き返した。
「みんな、聞いてー。これから、落語家さんが落語を見せてくれるから、ちゃんと聞いてねー」
「じゃあ、前にお願いします。用意させていただいた、あの台座のところでお願いできたらと思います。簡易なもので、すみません……」
「いえ、大丈夫です」
そう言って、子どもたちの横を抜け、用意された台座へと歩を進める。
めくりはない。出囃子だってない。ここは小学校の体育館。
あるのは──普段見ない大人に向けられる、好奇心とも違う、どこか距離のある子どもたちの視線。
俺の足をすくませるには十分なまなざしだった。
ここが寄席ではないことを、改めて実感する。
俺が、師匠や兄弟子たち以外の前で噺を披露する、初めての場。
緊張混じりのその歩でたどり着いた簡素な高座は、近くで見ればみるほど「今のお前には、このくらいでちょうどいい」と語りかけてくるようだった。
俺はその高座に一礼をしてから台座に登り、座布団に座る。軽く腰を浮かせて位置を整える。
用意していた扇子と手ぬぐいを懐から出し、座布団の右前に並べて置く。
いつもの稽古で身につけた所作を行っていたら、少し気持ちも落ち着いてきた。
顔を上げた瞬間、思っていた以上の視線の数に圧倒された。
呼吸を整えるため、ひとつ深呼吸。
これから俺は、ここで、初めて噺をする。
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