41怖目 『嫁入り葬』①
「おめでとうございます」
「末永ぐ、幸せにならっしゃいなぁ」
祝いの声が、黒い水面に落ちた雨粒みたいにぽつり、ぽつりと広がっていく。
喪服をまとった参列者たちは、誰もが笑っていた。
その笑みは柔らかいようで、どこか――高い場所から覗き込むような角度だった。
ゆっくりと祭壇へ頭を垂れる度、黒い衣の波が揺れる。
純白の白無垢を着せられた“花嫁”が、棺の中で静かに横たわっている。
喉の奥がひゅっと細くなった。
この村を訪れたのは民俗誌の取材のためだった。
「葬式を祝う村がある」と耳にしたときも、奇習の取材くらいに思っていた。
けれど実際にその輪の中に立つと、空気そのものがねっとりと肌に貼りつき、肺が重くなるようだった。
棺の中の若い女は、文金高島田をほどこされ、薄く紅まで引かれている。
その顔は、死者特有の無機質さとはほど遠い。むしろ――
……ほんとうに花嫁のようだった。
棺の脇には櫛、鏡、細工の施された小さな鈴。
いずれも婚礼の支度に使われる品で、弔いの気配はひとかけらもない。
「……結婚式みたいですね」
思わず漏れた感想に、隣に立つ初老の男は、ひくりと喉を揺らして笑う。
「んだども? そりゃ、そうだべさ。ここらじゃ葬式は、嫁入りとおんなじごどになんだわ」
「嫁入り……?」
「おうよ」
男はしわだらけのまぶたを細くし、白無垢の亡骸を見つめた。
「人ぃ死んだらな、神さまんとこさ嫁ぐもんだ。男も女も、年寄りも若ぇも、独り身も関係なぁんもねぇ。みぃんな、神さまのもんになんだ。……めでてぇこってなぁ」
その声音は、どこか甘く酩酊しているようだった。
男は続ける。
「見でみなされ。この顔よ。ええ顔してっぺ?
神さまんとこさ嫁ぐ者ぁ、みんなこったら顔になんだわ。……あんたも運がええ。こんなめでてぇ日に居合わせられんだもの」
私は返す言葉をなくす。
そう言われてみれば確かに、死に顔とは思えない穏やかさだった。
だが――どうしても視線が吸い寄せられる一点がある。
白無垢の花嫁の顔だ。静かに、柔らかく笑っているように見える。
だが、そこには――死者としては不自然な、生命の残り香のような穏やかさがあった。
考え込んだ瞬間だった。
――ちりん。
風は吹いていない。
それなのに、真昼の空気に澄んだ鈴の音が響いた気がした。
音の余韻が胸の奥にひそりと入り込み、鼓動を揺らす。
私は無意識に息を呑み、視線をそらした。
葬儀が終わると、村人たちは「披露宴」と称して宴を始めた。
形式としては葬式後の御斎にあたるのだろうが、雰囲気はどう見ても“祝い”一色だった。
誰ひとり、若い娘の死を悼む気配を見せない。
酒を回し、笑い声を上げ、太鼓をどんどん叩く者までいる。
「おめでとう」
「末永ぐ御幸せに」
祝福の声がひっきりなしに飛び交い、その熱気に押されるように天井の梁がぎし、とかすかに鳴った。
参列者は酒を手に棺へ近づき、花を供え、杯を傾けては
「ええ嫁入りだべ」
「よう似合うてらぁ」
と、本当の結婚式を祝福するように言葉をかけていく。
本来なら遺族だけがひっそりと座るはずの上座にも、祝いの声は容赦なく注がれる。
そこには喪服の初老の男女――若い故人の両親が端然と並び、次々とかけられる祝福を微笑んで受け取っていた。
私は席を立ち、ふたりのもとへ向かった。
「この度は、部外者の私などを参列させていただき……娘様のご冥福を――」
言い終える前に、母親がやわらかい笑みでそっと首を振った。
「とんでもなりませんよぉ」
父親も、口角をきゅっと上げて笑う。
「ご冥福なんてなぁ、言わんでくだされ。今日は娘の記念すべき日ですけぇ。あんたさんが暗い顔してどないすんだべ」
「しかし……まだお若い娘さんを亡くされて……」
「そらぁ、悲しぐねぇとは言わんけどなぁ」
父親は、白無垢で眠る娘へ視線を向けた。
その目には哀しみよりも、どこか確かな“誇り”が宿っていた。
「でもな、今日はめでたい嫁入りの日だ。親なら、門出を祝(いわ)うてやるんが務めっちゅうもんだべ。そうせんと、あの子も安心して神さまのとこ行けん」
なるほど――と私は思った。
死が“門出”として扱われる文化は、日本各地に点在する。
死者を海の彼方の国へ送り出す地域もあれば、あの世での新たな家族として迎えると語る土地もある。
葬儀を明るく行う風習も、歴史をたどれば決して珍しくはない。
この村の儀式も、その系譜にあるのだろう。
極端ではあるが、“この土地の送り方”なのだ。
私は深く頭を下げて席に戻り、すすめられたビールを喉に流した。
ひんやりとした液体が喉をすべり落ちていくのが、妙に現実味を連れ戻す。
やがて、誰かが手をぱんと打ち鳴らすと、村人たちが一斉に歌い始めた。
『嫁入りゃ神のもと〜
婿取りゃ水の底〜
ひと夜ふた夜で呼ばれりゃば〜
鈴鳴りゃ道ひらく〜』
輪になって踊る者、机を叩いて拍子を取る者。
酔いに任せて笑っているが、歌の節回しだけ
は妙に古く、どこか祈祷のようでもあった。
「この村の神さまはなぁ」
耳元でふいに声がして振り向くと、先程の男だった。
「水の底の神さまだ言われてな。昔から“嫁取り様”って呼ばれとった。死んだ者ぁ皆、嫁取り様んとこ嫁ぐんだで」
水神信仰――。
水田が広がるこの土地では、たしかに水の神は重要だ。
農耕の神が“底”と結びつく話も、日本神話にはいくつもある。
歌声が高まり、太鼓がどん、と響く。
酒の匂いと人の熱気に包まれる中、私は前から気になっていたことを口にした。
「そういえば……普通、御斎って火葬のあとに行いますよね。ここでは逆なんですか」
男は「ああ」と言い、禿げ頭をぽんと叩いた。
「ここじゃ婚礼とおんなじだからよ」
盃を口に運びながら続ける。
「昔の嫁入りゃ、まず家で祝言やるべ。酒飲ませて歌うて、花嫁の機嫌ようしてな。ほいでから新郎の家へ行ぐ――ここも、それとおんなじよ。死んだ者は神さまの嫁なんだでなぁ」
私は思わず感心した。
たしかに論理は一貫している。
だが男は、そこでぽつりと言葉を落とした。
「火葬はな、神さまんとこ行く“嫁入り道”なんよ。煙はまっすぐ天へ昇るべ? あれがな、神さまの柱なんさ。花嫁を導ぐ道や」
どん、と太鼓の音が一段大きくなる。
歌声がねっとりと絡み合い、どこかで鈴の音が混じった。
「けんどな――」
男の目が、ふっと陰を落とした。
「冷(つめ)てぇ魂は煙っこ乗れんのよ。死んだばっかしの魂ぁ、まだ人の匂いが強ぐて沈みやすい。だから宴で祝って、温めてやらにゃいけん。酒と歌と笑いでだ」
男は空のグラスをくるりと回し、逆さにした。
「温(ぬく)もりもろて軽ぐなりゃ、ようやく煙に乗る。そしたらやっと――神さまに嫁げるっちゅうこってなぁ」
その瞬間。
――ちりん。
今度ははっきりと、棺の方から鈴の音がした。
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