39怖目 『家に帰った?』
家に着くと、いつも通りの静けさがあった。
鍵を閉めて、靴を脱ぎ、スマホをポケットから取り出す。
――ピコン。
画面に通知が出た。
『家に入った?』
メッセージアプリに、そう書かれている。
送信者は不明。
最初は、誰かのいたずらだと思った。
――ピコン。
また通知が鳴る。
『靴を脱いだ?』
なんだこれ……気味が悪い。
無視してリビングに向かい、テレビを点ける。
画面の中では、売り出し中の芸能人が出演者たちを笑わせていた。
ボケーっと眺めていると――
――ピコン。ピコン。
『今、リビングにいるね?』
『テレビを観ているね?』
ぞくり、と背筋が冷えた。
どうして、自分の行動を知っている?
周囲を見渡すが、誰もいない。
まさか隠しカメラか?
部屋中を見回す。だが、カメラのようなものは見当たらない。
気のせいだ……たまたまだ……
自分にそう言い聞かせ、スマホをテーブルに置いた。
風呂にでも入って、気分を落ち着けよう。
脱衣所で服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
湯気の中で、さっきの通知を思い出すたびに胸がざわついた。
風呂から上がると、冷蔵庫を開けて麦茶を一気に飲み干す。
――ふぅ。
一息ついて、洗面台で歯を磨く。食欲はなかった。
歯を磨き終えると、寝室へ向かう。
明日も早い。もう寝よう。
――あ。
スマホのことを思い出した。
目覚まし時計代わりに、毎晩タイマーをセットしている。
仕方なくリビングへ戻る。
テーブルの上に置きっぱなしのスマホが、そこにあった。
――もう通知は来ていないか。
風呂に入ってから一度も音が鳴らなかったことに気づき、ほっと息をつく。
寝室に戻り、起動ボタンを押す。
――おや?
スマホがつかない。
ああ、充電が切れていたのか。
枕元の充電器を手に取り、スマホをつなぐ。
しばらくして、画面が光った。
よし、これで――
――ピコン。
通知音。
――ピコン。
――ピコン。
――ピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコンピコン。
狂ったように、鳴り続けた。
『ソファから立ったね』『周りをキョロキョロしているね』『テレビのリモコンを置いたね』『テーブルの端を触ったね』『一歩下がったね』『リビングを出たね』『廊下を歩いているね』『脱衣所のドアノブに手をかけたね』『ドアを開けたね』『ドアを閉めたね』『上着を脱いだね』『ハンガーにかけようとしてやめたね』『シャツのボタンを外したね』『片方の袖が引っかかったね』『シャツを脱いだね』『ベルトを外したね』『ベルトの金具が鳴ったね』『ズボンを下ろしたね』『足を抜いたね』『下着を下ろしたね』『靴下を脱いだね』『靴下を丸めたね』『洗濯カゴに入れたね』『風呂場のドアを開けたね』『蛇口を捻ったね』『水を出したね』『温度を調整したね』『手で確かめたね』『シャワーを浴びたね』『顔に水がかかったね』『目をつぶったね』『髪を濡らしたね』『シャンプーを取ったね』『手のひらに出したね』『泡立てたね』『頭を洗っているね』『両手で頭を押さえたね』『肩を流したね』『背中を流したね』『シャワーを止めたね』『蛇口を閉めたね』『タオルを取ったね』『顔を拭いたね』『首を拭いたね』『腕を拭いたね』『腰を拭いたね』『足を拭いたね』『タオルを畳んだね』『脱衣所に出たね』『床に水が落ちたね』『バスマットを踏んだね』『髪をかき上げたね』『洗濯カゴを避けたね』『台所に向かったね』『電気を点けたね』『冷蔵庫を開けたね』『麦茶のボトルを取ったね』『キャップを開けたね』『コップを取ったね』『麦茶を注いだね』『コップを持ち上げたね』『口をつけたね』『飲んだね』『喉が動いたね』『息を吐いたね』『コップを置いたね』『冷蔵庫を閉めたね』『蛇口の方を見たね』『洗面所に向かったね』『スイッチを押したね』『電気を点けたね』『歯ブラシを取ったね』『歯磨き粉を取ったね』『キャップを開けたね』『歯ブラシに出したね』『歯を磨いているね』『右を磨いたね』『左を磨いたね』『前歯を磨いたね』『舌の裏を磨いたね』『歯ブラシを洗ったね』『口をすすいだね』『水を吐いたね』『手を拭いたね』『歯ブラシを戻したね』『電気を消したね』『寝室に向かったね』『ドアを開けたね』『ベッドの前に立ったね』『カーテンを見たね』『部屋を見渡したね』『スマホのことを思い出したね』『ベッドに座ったね』『立ち上がったね』『寝室を出たね』『廊下を歩いているね』『足音がしているね』『リビングに入ったね』『電気を点けたね』『テーブルに近づいたね』『スマホを見つけたね』『手に取ったね』『画面を見たね』『通知を確認しているね』『ため息をついたね』『部屋を見回したね』『電気を消したね』『寝室に戻ったね』『充電器を取ったね』『コンセントを探したね』『差し込んだね』『コードを繋いだね』『スマホが光ったね』『画面を見ているね』『手が止まっているね』
恐怖で手が震え、スマホを床に落とす。
それでも通知音は止まらない。
光と振動が、壊れたように続く。
心臓が破裂しそうだった。
――ピコン。
唐突に音が止まった。
静寂。
通知履歴の件数は、おびただしい。
震える指で画面をなぞる。
その瞬間、新しい通知が一件、上書きされるように浮かび上がった。
『後ろ、見たね』
息が止まる。
……見ていない。
今は、まだ見ていない。
心臓の鼓動が、耳の奥で鳴り響く。
スマホが震える。
『息を止めたね』
ぞっとして、呼吸を再開した。
その瞬間、画面が真っ暗になった。
――ピコン。
光が戻る。
そこには、映像が映っていた。
リビングの全景。
テーブル。
ソファ。
壁。
……そして、画面の奥。
暗がりの隅に、誰かが立っている。
黒い影。
顔は見えない。
だが、確かに“こちらを見ている”。
思わずリビングの方を振り返る。
誰もいない。
ただ、寝室のドアが閉まっているだけ。
――ピコン。
息を吐いた瞬間、また通知が震えた。
『見つけた』
短いその文字を見た途端、音がした。
――コ、コ、コ。
リビングの暗がりで、足音が響く。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
――ピコン。
スマホが再び鳴る。
『ドアを開けたね』
気づけば、自分の手がドアノブを握っていた。
キィ……。
ドアが開く。いや、自分でドアを開けた。
そこには、暗いリビング。
何も、いない。
――ピコン。
足元のスマホが震えた。
『そっちに向かうね』
耳の奥で、床が軋む音がした。
少しずつ。
少しずつ。
何かが、近づいてくる。
……誰も、いない。
――ピコン。
スマホの画面が光った。
『おじゃまします』
スマホのカメラに映るのは、ドアを開けて立つ"自分"だった。
その“自分”が、画面の中で笑っている。
"自分"の口が開く。
――ピコン。
『いらっしゃい』
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