29怖目 『仏間の声』


 おじいちゃんが病気で亡くなった。


 とても気さくな人で、いつもニコニコしていて、誰に対しても愛想が良かった。


 僕も、お父さんも、お母さんも、他の親戚たちも、みんなおじいちゃんのことが大好きだったから、葬式の時はわんわん泣いた。


 おじいちゃんの介護をしていたおばあちゃんも、顔を手で覆いながら泣いていた。


 おじいちゃんが亡くなってから、僕は一人暮らしになったおばあちゃんが心配で、よく泊まりに行くようになった。


 おばあちゃんは僕が来ると嬉しそうにして、たくさんの美味しい料理を作ってくれた。


 僕が「もっと聞きたい」とせがむと、少し恥ずかしそうにしながらも、おばあちゃんはおじいちゃんとの馴れ初めや昔の楽しい思い出を語ってくれた。


 「若い頃はよく川まで散歩に行ったのよ。夕焼けを見ながら並んで歩くのが好きだったの。あの人、夕焼けがきれいだと、黙って手を握ってきてね……ふふ、あの頃はまだ照れくさくて、手を振り払っちゃったのよ」


 僕は泊まりに来るたびに、仏壇に手を合わせた。


 「おばあちゃんを、これからも見守っててください」——心の中で、そうお願いした。


 ある日、僕はおばあちゃんに内緒で遊びに行った。


 「いつでも来ていいよ」と合鍵を渡されていたので、チャイムも鳴らさずに鍵を開けて入った。


 家に上がり、居間をのぞいたが、おばあちゃんはいなかった。


 台所にも、トイレにもいない。


 出かけているのかな、と思ったそのとき——奥の仏間から、微かにおばあちゃんの声が聞こえた。


 僕はそっと、襖の前まで歩き、手をかけた。


 けれど、開ける前に、なぜか手を止めて、耳を澄ました。


 中から聞こえたのは、よく知るはずのおばあちゃんの声。


 でも、それは知らない声だった。


 「死ね。死ね。死ね。あんたが死んで清々した。死んで詫びろ。死んで足りない。地獄へ堕ちろ。もっと下へ。もっと深く。這いずって。喚いて。焼かれて。潰されて。砕かれて。骨の粉になるまで。見るな。喋るな。笑うな。笑う声が耳につく。気持ち悪い。息をするな。臭い。くさい。腐ってる。汗も唾も汚い。見た目も声も全部気色悪い。近寄るな。触るな。触ったものが汚れる。吐き気がする。どこにも行くな。ここに来るな。あの世に行け。今すぐに。

嘘つき。泥棒。恥知らず。下劣。下品。無知。無能。無価値。無意味。穀潰し。役立たず。金食い虫。疫病神。腐れ縁。人の形をした何か。

頼んでない。望んでない。いらなかった。ずっと邪魔だった。なのに、のうのうと生きて。人の人生を台無しにして。よく平気で生きてこられたね。妾遊び。博打。酔って怒鳴って。物を壊して。壁を殴って。子供を泣かせて。私を泣かせて。それで終わったつもりか。何も終わってない。土下座してた? 泣いてた? 反省してた? 全部ポーズ。形だけ。やり直せば済むとでも思ってた? 全部覚えてる。許さない。絶対に。何度死んでも。自分のことしか考えてない。自分ばかりが被害者面してた。加害者は、あんただよ。あんたなんだよ。誰も言わないけど、みんな思ってた。私の親にも頭を下げず、近所にもバレてた。みんな笑ってた。見て見ぬふりしてた。あんたがいたから、私は一人だった。私の夢は? 時間は? 若さは? 返せ。返せ。返せ。あんたがいたから、私は死ねなかった。あんたは人生の罰。刑罰。神様の悪意。呪いそのもの。死んで清々した。やっと呼吸ができる。ようやく生きられる。だけど遅すぎた。遅すぎたの。魂が汚れてる。拝む価値もない。祀るなんて冗談じゃない。骨も拾わない。墓も建てない。名前も呼ばない。このまま忘れ去られろ。誰にも思い出されるな。誰の記憶にも残るな。消えろ。消えてしまえ。あんたは何だったの? 何かを遺した? 何もない。苦しみだけを残して。あんたが死んだことで、やっと私も死ねるの。でも、それでも足りない。何一つ報いになってない。私の人生を返して。心を返して。泣いた夜を、返して。あの子が泣いてた。孫の顔も歪んだ。あんたの血を継いでる。それだけで辛い。思い出したくない。

あの時も、あの夜も、あの冬も。凍えるような夜に、私は一人だった。あんたは寝てた。酒臭い息をして。苦しかった。つらかった。寒かった。痛かった。叫んでも誰も来なかった。全部、あんたのせい。幸せになってほしかった。願ってた。だけど叶わなかった。だから、もう一度言う。死ね。地獄へ堕ちろ。焼かれろ。潰されろ。祟られてろ。

ずっと、永遠に――一人で。」



 その場に立ち尽くした。


 背筋がひやりと凍ったようで、音を立てないように後ずさる。


 気配を消すように、玄関まで戻り、靴をつっかけて、そのまま家を出た。


 走りもしなかった。ただ、黙って歩いた。


 家に帰ってからも、胸の奥が冷たいままだった。


 それからも、おばあちゃんはいつも通り、ニコニコしていた。


 僕が泊まりに行けば、美味しいご飯を用意してくれたし、親戚が集まった時には、嬉しそうにおじいちゃんの思い出話をしていた。


 「ほんとに仲のいい夫婦だったんだね」


 誰かがそう言えば、おばあちゃんはうれしそうに笑った。


 でも……


 おばあちゃん、僕たちが知らないところで、ほんとはおじいちゃんに、何をされてたの?


 僕は今も、あの家の仏間を、まっすぐ見られない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る