第二章 ⑧

 詩が窓の外を眺めている頃と時を同じくして、緑は空を見上げていた。

 校舎の屋上、本来立ち入りが出来ない屋上ではあったが、今日はアストリッドに頼み込んで特別に開けてもらい、大の字になって寝転がる。視界の端に僅かに給水塔が見切れている以外には何もない。視界の殆どが立体的な雲の流れる晴天である。


「ああ……疲れたぁ……」


 腹の底から絞り出すような声。これは別に体力的な話でなく、精神的な疲れから出たものだった。体力に関していうのならまだやろうと思えば十キロぐらいは平気で走れる。


 この疲れは、緑の対人でのやり取りがキャパシティを超えてしまった故のものだった。


 ――もう駄目だ……誰とも喋りたくない。一人でいたい……。


 これは緑の持論ではあるが、人間には他者と関わる度に減少する精神面での体力があると考えている。ゲーム的にいうのならMPと呼び変えてもいいかもしれない。


 人と接するのが嫌な訳ではない。むしろボッチから抜け出したいので誰かと喋る機会は虎視眈々とうかがっているのだが、しかしキャパシティを超えて誰かと一緒にいるのもそれはそれで気疲れする。


 今回に関しては一晩中来花達と遊んでいたせいで、MPは完全に使い果たし、最早図書室で食事をするのも嫌なぐらい人と離れたくてこの屋上に逃げてきたのである。


 ちなみに緑の周囲にこの持論に同調してくれる人は誰もいない。来花や詩たちは今日の朝も元気に談笑していたし、翠もきっと学校で友達と仲良くやっている。

 この世界は恐らく緑以外MP無限大の逆チート世界なのだ。


「クソが!」


 自分でもびっくりするぐらい大きな声が出た。相当疲れているのだろう。

 とりあえず今日の夜も来花が食事にやってくるのだ。今の内にMPを回復させておこうと、一人っきりの昼食を済ませるために弁当箱を広げる。


 だがその時、屋上の入り口から人の気配がした。


「……?」


 人が来た。しかしここが開いていることはアストリッドに施錠を開けてもらった緑しか知らない筈だ。だというのに扉が開き、一人の男子生徒が姿を現す。


「お、何だよ鹿ヶ谷。こんなとこにいたのかよ」


 現れたのは敷島だった。はっちゃけて屋上に忍び込もうとでもしていたのかと思ったが、何故か緑を見つけてほっとしたような表情をしている。


「……? 僕を探してたんですか?」

「いや俺じゃなくて……おーい、ここにいたぞ」


 背後にいる誰かに向かって敷島が声をかける。すると敷島の脇をすり抜けるようにして、白く輝く髪をなびかせた一人の女子生徒が姿を現した。


「やっほー? 探したよ」


 現れたのは月永ひなだった。金色がかった白く明るい色の長髪を風になびかせ、細い目でこちらを見据える。人当たりの好さそうな笑みを浮かべながらぱたぱたとこちらに手を振る。


「えーっと、月永さんでしたっけ? 僕に何か?」


 正直喋るのがもう疲れたので帰ってほしいのだが、緑はその本音を押し殺してぎこちなく笑う。


「うんー、ちょっとお話が……えーくん、あの子なんて名前だっけー」

「鹿ヶ谷だ。ってかえーくんじゃねえって。ひないつになったら俺の名前――」

「そーだシカガヤ君だった。ありがとねー、もう行っていいよー」

「え?」


 突然そんなことを言われて呆気にとられる敷島だが、ひなはお構いなしに扉に手をかける。


「で、でも俺もまだ飯食ってないし、一緒に――」

「ありがとねー」


 有無を言わさずそう告げて扉をバタンと閉める。

 彼氏を閉め出し、屋上に二人っきりになったところでひなの視線がこちらに向いた。


「あの……いいんですか?」

「なにがー? 私が今話したいのは君なんだけどぉ?」


 甘ったるいような間延びした話し方。その細い目が僅かに開かれ、その視線に何故か少しだけ寒気を覚える。


 風に乗って雲が流れる屋上で、ひなの姿が異質にくっきりと浮かび上がっているような気がした。


「……」


 こちらに向かって歩いてくるひなに身構える緑。

 彼女との面識はほぼないが、確か来花ととても仲のいい女子だった筈だ。となれば要件としては、親友の周りに急に現れた緑の素性を探る為という事以外には考えられない。


 そういう意味でいうのなら、昨日の徹夜お泊りゲーム会はバレたらまずい気がする。


 ――落ち着け……向こうだって僕とは初対面なんだから。


 単純に知らない相手と喋る事への緊張も抱きつつ、緑は近づいてくるひなに身構える。


 そして緑の目の前にぺたりと座り込むと、にこりと笑って問いかけた。


「昨日来花ちゃんシカガヤ君の家行ってたよねー? で、泊ってたよね? なんでー?」


 ――まずい。最悪な認識のされ方をしてる。


「いやそれは……えっと……」

「そのお弁当も、来花ちゃんと同じだよねー? もしかして付き合ってるのぉ?」


 緑の弁当箱の中身を指差して問いかけるひなに、緑は必死に否定する。


「ち、違います! 僕らは別にそういう関係じゃ――」

「そんな関係じゃない女の子を家に呼んで泊めたんだぁ?」


 極めてまずい。ひなは完全に緑にあらぬ誤解をかけている。

 半分以上尋問に近い問いかけに緑はどう答えるべきが必死に頭を回して考える。違うクラスではあるがひなは来花と並んでクラス内カースト最上位の女子だ。そんな相手に緑が来花に手を出すクズ野郎だみたいな噂を流されれば、最悪いじめが発生してしまう。


「誤解なんです! 僕は烏丸さんに手を出したりしていません!」

「へえ? 手を出していないって証拠って、何かあったりするのぉ?」

「証拠⁉」


 風で流れる髪を抑えながら問いかけるひな。

 必死に頭を回していたその時、二人の顔が思い浮かぶ。


「い、妹と詩が一緒にいました! その二人に聞けば分かります!」

「ふーん? そうなんだー」


 詩なら今の時間教室にいる筈だ。そこに確認してもらえれば自分の無実は証明できる。


「じゃあ妹さんに電話してもらえるー?」

「妹? でも詩もいますけど……」

「妹さんに電話かけてー。今すぐ」


 穏やかながら有無を言わさない口調。スマホを取り出し、仕方なく翠に電話を繋ぐ。

 電話をかけ始めて一秒で、翠と通話が繋がった。


『なんやのおにい……今ウチお昼ご飯の途中なんやけど……?』

「あ、ああ悪い……」


 眠そうな声音の翠。とりあえず手短に用件だけを伝えようとしたその時、ひなが手を伸ばして緑のスマホをまるで自分の物の様に奪った。


「え? ちょ……」

「こんにちはー。君のお兄さんの彼女でーす」


 瞬間、スマホの向こうから電話越しにも分かるぐらいすさまじい勢いで翠が倒れ込む音がした。


「何してるんですかアンタ⁉ ちょっとスマホ返して!」

「シカガヤ君ってば昨日は私の事ほったらかしにしてー。そう、デートの約束だったのにいつまでも来なくてー。へー? ああそうなんだぁ。じゃあ浮気じゃないんだねー」


 青ざめてスマホを取り返そうとする緑をいなし、そんな事を話しながらひなはのんびりした調子でとんでもない事を電話の向こうに吹き込んでいる。


「何言ってるんですか⁉ ちょっとマジでスマホ返して!」

「はいはーい」


 間延びした言い方と共にスマホを差し出し、緑はひったくるようにスマホを奪い返す。


「もしもし翠か⁉ 今のは違うよ⁉ 今のは――」

『この女の敵……』


 その言葉と共に通話が切られる。翠が聞いたことのないぐらい低い声を出していた。


「なんてことしてくれたんだアンタ!」

「えー? でも私の誤解はこれで解けたよぉ?」

「新たな誤解が生まれてんですけど!」


 家に帰った後どう説明したものかと緑は頭を抱える。それを見下ろしながらひながぼそりと呟いた。


「まあ知ってたけどねー、一晩中見てたし」

「……? 何か言いましたか?」

「べっつにー」


 はぐらかすような言動。今まで緑はひなのことをちょっと天然な女子ぐらいにしか考えていなかった。しかし今日のひなは得体が知れない。


「……誤解が解けたんならもういいでしょう?」

「そうだねー。シカガヤ君が来花ちゃんに手を出してないって知れて安心したよー。でも、そうなるとシカガヤ君にとっては随分ラッキーだよねぇ」


 そう言ってひなはぞっとする程綺麗に笑って見せた。


「昔フラれてるのに、相手の方からまた頼ってくるだなんてー」

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