第二章 ⑤

 いったい今何が起こっているのか、誰か偉い人が出てきて説明してほしい。

 冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出しながら、そんな事を考えてキッチンから視線を後ろに向ける。


 十四畳ほどのリビングには今三人の女子がいる。男子高校生からすれば夢のような光景だろうが、変わってくれる人がいるのなら今すぐ変わってほしいと緑は真剣に思っていた。


「みーどーりー。喉乾いたよー」

「……はい」


 来夏に催促され硝子のコップに注がれた冷たい麦茶を差し出す。テーブルに置く前にそれを緑の手から受け取ると「ありがと!」と満面の笑みをこちらに向けてコップに口をつけた。

 

 リビングのテーブルを前に足を延ばして座る来花。ここは鹿ヶ谷家である筈なのに、まるで自分の家であるかのようなくつろぎ方だ。

 

 一方その対面では詩が借りてきた猫のように小さく縮こまって正座をする詩と、その背中に隠れて敵意剥きだしで来夏を睨む翠がいた。同じ猫でも翠の態度はまるで知らない人が家に上がってきた子猫のようで、口には出さずとも『おにい、誰やねんその女』という心の声が緑には伝わってくる。


 そしてごくごくと喉を鳴らして麦茶を飲み干した来花は、ぷはーっと美味しそうに息を吐きだした。


「あーっ! 生き返る! このお茶ももしかしてあれかな? 飲むだけで痩せるみたいなお茶だったりする?」

「ないですよそんな霊感商法みたいなお茶。それより何しに来たんですかこんな時間に」

「……? 何言ってんの緑。アタシ夕方にまた後でねって言ったよね? いつどこでとか言ってないじゃん」

「……」


 まさかそんな叙述トリックみたいなニュアンスで言われているとは思ってもみなかった。


「けどアタシも大変だったんだよ? 緑の家を探そうにも住所なんて知らないしさ。そしたらたまたま学校で詩を見かけてさ! 何してんのって聞いたら緑の事を探してるって言ってて! マジ運命じゃない? それで詩に案内してもらえてさ!」

「……」


 詩が目をうるうるさせながら申し訳なさそうにこちらを見てくる。本人は反省しているのかもしれないが、流石にこれは詩のせいではない。


「……あのさ、それよりさっきから気になってたんだけど」


 そう言って来花はちらちらと詩の方を見る。彼女にしては珍しくちょっと緊張している様子に見える。

 その視線の先には詩の後ろで警戒しながら身を隠す翠がいた。


「そこの子ってもしかして……緑の妹ちゃんとか?」

「は、はい。そうですけど……」

「えーっ⁉ めっちゃ可愛い! 何その子!」


 唐突にテンションを上げ、身を乗り出して翠の顔を覗き込む来花。翠はびっくりした小動物のように目を丸くして固まっていた。


「こんばんは! アタシの名前は烏丸来花っていうんだけど! ねーお名前教えてよ!」

「お、教えへん……」

「やだーっ! めっちゃ警戒されてる! ってか関西弁可愛すぎ! やばい!」

「お、おにい何なんこの人……っ」


 小さくてかわいい翠に異様にテンションが上がる来花。翠の方は突然現れたテンションの高いギャルに困惑を隠しきれないでいた。


 そしてその二人に挟まれた詩はどうしていいか分からず、かといってその場から動くことも出来ずに小さくパニックになっていた。声には出していないが口の形がずっと「あわわわわ」という動きをしている。

 

 ――しかし烏丸さんがこんなに可愛い物好きだったとはなぁ。

 

 客観的に見ても翠は可愛らしいがそれにしても来花のテンションは異常だった。間に詩がいなければ今にも飛び掛かって撫でまわしていきそうな勢いだ。しかし翠の方は完全に警戒心が最大にまで引き上げられていた。


 その表情には若干の敵意すら見えていて、いつでも逃げられるよう中腰になっている姿勢は、盗塁を狙う一塁ランナーを想像させる。


「烏丸さん。妹が怖がってるからその辺に……」

「ってかあれだね。妹ちゃんちょっと緑に似てるよね! 目元がキリッとしてるとことか」

「……ホンマに?」

「似てる似てる! 緑ってぱっと見ヘボいくせにいざという時視線鋭くなるんだけどさ? 妹ちゃんその時の緑と似てる!」

「ええー? いやいやそんなことあらへんけどー?」

「わ、分かる分かる。緑くんオンとオフの差が凄いもんね」


  何故か翠の警戒心が一気に解ける。そして何故か詩までもが共感するようにこくこくと頷いていた。


「ところでおねーさんは、おにいとどういう関係なん?」

「えー? なんだろうね? 緑はどう思う?」

「僕に聞かないでください」


 緑個人の意見としては雇用主と奴隷だと思っている。言うまでもないが緑が奴隷だ。


「まあアタシ的にはあれだね。師匠と弟子って感じ。あ、緑が師匠ね」

「弟子……つまり緑くんを尊敬しているってこと?」

「勿論! 昨日きもい大学生に絡まれてたところを助けてもらってさ。ガチかっこよかったし!」

「何なんそれ! 詳しく教えて!」


 ――まずい。二人そろって食いつき始めた。


 自分のエピソードで盛り上がる三人を見ながら緑は居たたまれなくなる。米が炊き上がるまであと十分。早く帰ってもらわないと夕食の時間に食い込んでしまう。というか自分の昨日の言動が他人の口から語られている今の状況が耐えられなかった。


「烏丸さん! いいから早くここに来た理由を教えてください!」

「そんでさ? アタシがお腹減り過ぎて死にそうになってた時緑がさっそうと現れて、大学生をぶっ飛ばしてくれたんだよね!」

「えーっ! おにいその時なんか言ってた⁉」

「なんだったかなぁ? 確か……そんなに喧嘩を売って欲しいんなら俺が代わりに買ってやろうか? だったかな?」

「うわあ。めっちゃ緑くんっぽい」

「言ってないそんな事!」


 台詞の内容から一人称まで何もかも違う。


「いい加減にしてくださいよ! 翠! お前も烏丸さんにくっつくな!」


 何故か緑の話題で打ち解けた三人。特に翠には強めに声を荒げる緑だったが、それに来花と翠は二人そろってジト目をこちらに向ける。


「えー? 何々? 自分の妹が自分以外にくっついてるのが許せない感じ?」

「おにいそんな事やから友達できないんやで! 人との距離の詰め方なんて雑でええんやから!」

「急に正論で刺すな!」

「っていうか緑も悪いよねー。こんな可愛い妹ちゃんがいるんなら先に言えし」

「ホンマや! 学校で妹が可愛いですって言え! 言いふらせ!」

「ブラコンが過ぎるだろ!」


 二人掛かりで攻め込まれたじろぐ緑。救いを求める様に詩の方に目を向ける。


「詩も何とか言ってくれ! っていうか助けてくれ!」

「緑くんが……緑くんが人と喋れてる……嬉しい……」

「お前……泣いてる?」

「緑くんイマジナリーフレンドを作って向こう側に行っちゃったって噂を聞いてたから……私嬉しくて……」

「あのクソ教師め!」


 アストリッドを明日問い詰めようと心に誓う。


「そう言えばお姉さんってなんて名前なん?」

「烏丸来花だよ。よろー」

「烏丸……あれ?」


 その時翠が来花の名前を聞いて何か引っかかったのか考えこみ始め、緑はぎくりと嫌な予感を感じた。


「どっかで聞いた名前やな……誰やったっけ」

「か、烏丸さんと私は緑くんと同じ中学だから、多分それで聞き覚えがあるんじゃないかな?」

「そうなん? あれ? でもそういうことやなくてどっかで……」


 まずい。翠と詩には中学時代にギャルにフラれたことは言ってはいたが、来花の名前までは教えていなかった。というよりは緑としてもあまり思い出したくもない。もしこの場で来花にその話をされだしたら死ぬ。羞恥心で。


「そう言えば烏丸さんと緑くんって昨日仲良くなったの? でもさっきの話だと助けてもらった時に緑くんのこと覚えてたって言ってたよね」

「あー実はさ。アタシ中学の時に一回――」

「はいはいストップ! 烏丸さん、話が進まないからいい加減ここに来た理由を教えてください!」


 危うく来花の口からあの時の話が出そうになったので慌てて制する。


「何急に……まあいいや。それじゃあ早速で悪いけど……」

「烏丸さん早速って言葉の意味辞書で調べてもらっていいですか?」

「うるさいなあ。とにかく本題を言わせてもらうけどさ」


 そう言って来花は緑の顔を見る。そして勢い良く頭を下げた。


「お願い! しばらくアタシの分もご飯の面倒を見てほしいんだけど!」

「え?」


 話が見えない。混乱する緑に来花は続ける。


「さっき話してくれたじゃん。ダイエットには食事が一番大事だって。けどアタシ料理苦手で、緑みたいに自分の分を全部作るなんて絶対無理だし……」

「いやだからって……家で食事を作ってくれるご家族に頼めばいいんじゃ」

「駄目。パパとママ結構仕事忙しくてさ。わりとスーパーのお惣菜とか、冷凍の揚げ物とかで済ます事多いんだよね。勿論お休みの時はがっつりご飯作ってくれるんだけど……たまのお休みにアタシのダイエットに付き合わせた料理を食べさせるのも申し訳なさ過ぎて」

「……」


 言われて少し納得してしまう。

 社会人ならともかく、実家で暮らす高校生のうちは食べ物は家族の作ってくれたものに頼らざるを得ない。高たんぱく低脂質な料理を買うにしろ作るにしろ金がかかり過ぎてしまうだろう。緑の場合は自分が全ての食事を家族の分も含めて面倒を見るという条件に、両親から食費を受け取っているのだが、そういう特例でもなければ食事から改善というのは中々に難しい事なのかもしれない。


「すいません烏丸さん。そこまで気が回りませんでした」

「まあアタシんちの事情だしね。んでパパとママに相談したわけ。友達の家で痩せるまでしばらくご飯をお世話になっていいかって。そしたらいいよーって」

「軽すぎませんかそれ?」


 というかその口ぶりだと向こうは相手が異性だと知らずに送り出したのではないだろうか。しかもこちらは翠がいるとは言え基本的に両親が不在だ。そんな場所で同級生を受け入れてて後で向こうにバレたらまずいのではないか。

 

 来花の話は分かったが、ここは穏便に断ろうと考えていたその時、


「ええんちゃう? ウチは全然大丈夫やで」

「マジ⁉ ありがと妹ちゃん!」

「翠って呼んでーや来花ちゃん!」

「いえーい! 翠ちゃん!」

「ちょっと待ってください?」


 緑より先に返答した翠に慌てて緑は口をはさむ。


「今の無し! 翠、何を勝手に――」

「でも今日の分は流石に難しいよね? 急に押し掛けたわけだし……」

「大丈夫やで。今日は作り置きの分も兼ねて多めにカレー作ってあるから」

「えーっ! タイミング神じゃん!」

「何これ僕透明人間?」


 自分を置いてけぼりにして話が進む。助けを求めようと詩に目を向けるが、「今日はカレーかぁ」とぼやきながらちょっとにやけていた。完全に自分も食べていく気だ。


「本当に待ってください! いくらなんでも同級生の女子と晩御飯なんてまずいでしょう?」

「何が問題なん?」

「そうだよ。アタシこの間もひなの家でタコパしたし」

「大丈夫だよ緑くん……それぐらい普通だよ?」

「くっそこの陽キャ共が!」


 こっちは同級生と喋る事すらないというのに。対人関係の経験値が違い過ぎる。


「つーかさ。それなら詩だってアウトじゃね? 詩って前から緑と何回かご飯食べてるんでしょ? それでアタシが駄目っておかしくね?」

「それは……詩は昔から何回も家に呼んでるしいいんですよ」

「じゃあ最初の一回目は? その時は初めてだったよね? それはオッケーなわけ?」

「ち、違います。詩とは元々友達同士で何回か会っていてそこから晩御飯に誘ってるんです」

「だったらアタシらも同じ中学だから三年ぐらい前から知り合いじゃん。アタシが駄目ならそこんとこの理由もちゃんと言いなよ」


 ――駄目だ。ギャルなのにちゃんと理論武装して詰めてくる……。


「……真面目な話さ。アタシ自力では多分痩せられない気がするんだよね。結構意志が弱いし」

「え?」

「勿論痩せたいのは本気だし、緑に迷惑かけるのも分かってるけどあんまり時間をかけられないんだよね。なんていうか、どこまで時間が残ってるのかもよくわかんないし」


 来花の言葉の意味を図りかねて戸惑う緑。そもそも来花が告白したい相手というのも緑はまだ知らないのだ。分かる事と分からない事でいうのなら、後者の方が断然多い。


 しかしそれでも確実な事が二つあった。


 来花が今、本当に困っているという事。そしてそれでも本当に緑が嫌だと言えばきっとそれを汲んで引き下がってくれるという事だった。


「だからお願い。痩せるまでの間面倒を見てくれない? お金はちゃんと出すから」


 しおらしい態度。きちんと両膝を揃えて正座をしてお願いするその姿を見て緑はため息をつく。

 ちょうど炊飯器が炊き上がりを知らせた。


「……僕の作るカレーわりと甘めだと思いますけど、それでもいいですか?」

「っ! 甘口めっちゃ好き!」


 嬉しそうに表情を綻ばせる来花。

 明日から少しだけ手間が増える。まあ、今までと大して手間は変わらないだろうと緑は腹を括った。


「よっしゃご飯食べたら皆で浦鉄やろうや! 浦島太郎鉄道!」

「お! いいじゃん!」

「詩、どうせ一緒に食べてくんだろ? 家に連絡だけしといた方がいいんじゃないのか?」

「あ、うん。待って家に連絡だけ……」


 そこで詩が窓の外をちらっと見た。リビングから見える駐車場の向こう、何かをじっと目を凝らして見る。


「詩?」

「家の外に誰かいた様な……気のせいかな?」

「誰かって誰が?」

「おにい! 煮卵出してええかな?」

「あ、おいちょっと翠。それタッパー二つあるけど古い方から使いたいから待って」


 翠の言葉に上書きされ、緑の意識は家の中に向かう。詩も少しの間窓の外を眺めながら首を傾げていたが、しばらくして緑の後に続いた。


 来花が訪ねてからずっと、表情のない月永ひながじっと瞬きもせず家の中の様子を眺めていたのだが、気づいた者は誰もいなかった。

 

 

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