第6話 哀れ

 この街には海まで続く川が流れている。

 街から海は見えないが、川が海に続いていることはだけは確かだった。この街が大きくなったのは、この川のおかげといえる。

 そして、近年になって、河川敷は整備された。コンクリートで固められた。それも、環境に配備されたという材質の、洒落たコンクリートのつくりだった。きれいになったことで、川のそばで、座って話をする者が増えはじめ、いまでは、二十四時間、川のそばで、人々が座り込んで、何かを話している。ようするに、おおざっぱにいえば川は人気が出た。

 そして、マキノとミズメは、パサージュにあったわたしの探偵事務所を離れ、河川敷までやってきた。平日の昼間だが、河川敷には若者を中心に座り込んで雑談、あるいは哲学からソフトな恋愛相談、いっぽうでハードな恋愛相談が各所で開催されている。ただ、座っているだけの者もいる。だいたいは、みな、飲み物持参で、座り込んでいた。

 むかしから、この川を知っているわたしからすれば、川が人々の憩いの場所になるなんて、信じがたい光景ではある。いまでは、岸部に停泊船もあり、それが船上レストランもある。むかしから川に船を浮かべ、そこに定住する者はいた。その家賃は陸よりむしろ高いくらいだったする。川の上に住むのがステータスにすらなっている。以前は水上バイクで飛ばす者もいたが、いまは規制されている。

 しかし、なんとっても、わたしが若い頃は、この川をめぐって血で、血を。

いいや、その話はさておき、二人はというと、橋の下で、ぜいはあ、と乱れた呼吸を整えているところだった。パサージュの屋上から逃げ、地上に降りてから、二人はまた走った。

 橋の下が安全だという保障はない。しかし、危険そうな追跡者から距離をとったことで、多少の安堵はあってしかたない。

 マキノは、大きく深呼吸して、ミズメへ顔を向けた。

「死んだかな」といった。「ブーメラン」

ミズメの方は、まだ呼吸がひどく乱れていた。手錠のついた両手で、汗で顔にはりついた前髪を整えながら言い放つ。

「あれは、てんばつです、たぶん」

 マキノの問いかけに対して、適切かどうか、微妙な返しだった。

 だが、我が孫はそこに注視はしない。事務所があるパサージュの方を見る。とうぜん、川越しに広がる街の建物に阻まれ、パサージュは見えない。

「追われてるですね、ミズメさん、ほんとに」

「推測ですけど、お祈りが足りなかったんです、日々の、わたしの」

「なにお祈りしてたんですが」

「ホシにです」

 顔をあげ、そう答えられると、マキノは少し考えから「きくんですか、それ」と、問い返す。

 なあ、この状況で、そこを会話として膨らますべきかな、マキノよ。

 幸い、ミズメは気にせず、べつの話をし出す。「ごめんなさい、まきこんでしまって、ええっと………」と、彼女は少し記憶をさぐるような間をあけて「マキノさん」と、名を呼ぶ。

 いわれたマキノの方は「いや、どうしたもんだろう………」と、頭をかく。この状況をどうとらえていいものか、わかっていなかった。なかなかのビックトラブルなのに。

 いっぽうで、二人は気づいていない。ひらけた河川敷で、二人はかなり目立っていた。いや、せいかくには、ミズメが目立っていた。可憐な顔立ちで、つやつやの髪に、お嬢様学校、そのうえ、両手に真っ黒な手錠だった。

 彼女自身が単独で、華があり、非日常的な存在感がある。そこへ手錠をしている。

 もはや、手錠のCMキャラクターみたいにさえ見える。

 そして、マキノはようやく「そうだ」と、何か名案を思いついたらしい。そこにミズメも反応して顔をあげた。「手錠を外す方法」

「あるのですか、外す方法」

「スマホで検索してみます」

 スマホで調べる方法を思いついたこと、名案を思いたような反応をしただけなのか。

「あ、ない!」しかも、直後にわかりやすく芳しくない叫びをあげた。「スマホがないぞ!」

「落としたんですか」

「はい、落としたみたいです!」答えて、マキノは泣きそうだった。

そのため「あの、だいじょうぶですか」と、ミズメ側から心配される始末。

 マキノは「き、きついです」と、正直に答えていた。「スマホを一度も無くしたことがないのが、人生の誇りだったのに………」

 そういうタイプの誇りは、どうだろう。

 はてさて、スマホを失った孫と、手錠をつけたままの可憐な少女、ミズメ。ふたりは河川敷の橋の下、まるで練習不足の二人芝居中みたいにうろうろしつつ、よわい会話を重ねている。そして、ミズメの方は、どうしても、目立ってしまっていた。見た目もあるし、手錠もあるし。

 すると、ミズメは、はっ、となった。それから「あの」と、スマホ損失のダメージを受けているマキノへ声をかけた。「わたし」

「あ、はい」

「あの、わたし」

「祈ります」

 祈る。なぜ。

「こうして」と、ミズメは両手を胸の前に添えて、左右の指を組み合わせる。「祈りポーズをしていれば、手錠が不自然に見えないと思うのです」会心のアイディアを見つけたように。

「いえ、不自然です」

 孫は、彼女のアイディアを即座に否定である。

 こういう男は、モテない。

「そうですか………」ああ、ものすごく、がっくりしている。「率直な意見、ありがとうございます………」

 感謝の言葉を口にしているが、わかりやすく落ち込んでゆく。そして、そこまで目にして、マキノも察知して「あ、いえ、やっぱり、いいアイデアだと思います」と、慌てて、さきの評価を覆した。「いいアイデアです、すごく、ほんと、はい、そりゃあもう、はい、ええっと、高性能なアイデアだと、思います」

 無難な評価を下したことで、ミズメの中の自分への評価が下がったことを心配し、とっさに評価を取り返そうとする。

 哀れだ。

 そして、とりかえしの困難さに気づいたマキノは話の流れを変えて行く。「ところ で、どうして、手錠をつけられたんでしょうか」

「きいてくれますか! マキノさん!」

 真っすぐ目を見られ、マキノは一礼して「ど………どうぞ」といった。彼女の可憐さをショートレンジに受けて、やり方がわからないらしい、挙動不審が手放せないでいる。

 すると、ミズメは胸骨あたりで両手を組み、祈るポーズをとった。河川敷には、散歩や雑談をして座り込んでいる者たちも多いが、ミズメがとった祈るポーズは、あんがい、遠目から見ると、手錠をつけているとわかりにくくしている。

 いっぽうで、あの娘さんは、何に祈っているのだろうか、という、その種の視線を集める点では目立ってしまっている。好し悪しがあった。

「わたし、いつものバスに乗って学校から帰っていたのです。でも、なにか読む本がほしくて、本屋さんへ行こうと、その、よく行く古書店なのですが………それで途中でバスを降りたら、警察の人に呼び止められて」

「あのブーメランですか、髭の」

「はい、あのブーメランです」ミズメは肯定して「髭で、ニセ警官の」と、続けた。

 ミズメは祈りのポーズを続けている。橋の下にいるが、太陽の光が川面に反射して、その反射した光が、ほどよくミズメへ照射され、もはや、少し神々しささえある。

「職務質問され、気づいたら手錠をつけられて、そのまま車に乗せられそうになりました………こわかったです………」

 思い出してか、ミズメは少し泣きそうな顔をした。

「こわくて、気を失いそうでした………」

マキノはかける言葉もみつからないらしく「そんな」と、だけつぶやいた。

「わかんない状態だった。頭の中がとまってて、警察の人だし、大丈夫だ、これは大丈夫なんだって、でも、やっぱり、これおかしいっていうのも、どこかわかってるんです、変ですけど、おかしいって、これ、ぜったいわかってるのに、パニックなのに………でも!」ふと、ミズメが爆ぜるようにいった。「この人は、警察の人だし、信じよう、信じようって、思うようにしてて! わたし!」

 話しているうちに、そのときの気持が心の中で再現されたのか、ミズメはマキノへ迫り、小さく叫ぶ。

 あのつらさの誰かにわかってほしいし、悔しさもあるようだった。ああいった、おかしな状況に、対応できなかった自分が、いま思えば悔しいというような。

 対して、マキノの方は、突如、距離をつめてきたミズメに、慌てていた。顔が近いし、その目に涙の気配もある。しかも、祈るポーズである。いいにおいもするだろう。しかし、話の内容は深刻だし、まてよここで、いいにおいがするな、と思うようなにんげんは、軽蔑すべきにんげんではないか、そんな心の葛藤があり、とにかく、いっぺんにいろんなころが内部で勃興し、内戦状態になって、けっきょく「ああ、はい………」と、返事をするくらいしか出来なかったらしい。

「車に、押し込まれそうになりました………」

 祈りを形作るミズメの指先が震えていた。祈りのポーズをしていなければ、もっと震えていそうだった。

「ひどい」

 と、マキノがいった。ミズメは少しして「はい」そういった。

 ミズメの一部、感情を爆ぜてさせて話したものの、河川敷であり、野外である。 人々は雑談し、自身の近くの人生の言葉に夢中だった。それに、すぐそばには通行量の多い車道もある。彼女の叫びは、ここでは気に留められるほどの音量にも満たない。

 聞こえているのは目の前にいる、マキノにだけだった。

「でも、逃げたのです」

「逃げれてたんですね」

 聞いて、マキノは安堵した。逃げられたからこそ、いま、彼女がここにいることを忘れているが、それは貴重な安堵ではあった。

「走って逃げたんですか、すきを見てとか」

「それが、その」

「はい」

「わたしが、あのニセ警察の人に捕まっているところを、スマートフォンで撮影している人がいたのです、趣味といいますか、たぶん、ああいうのを見ると、無意識に撮影してしまうような、つまり、習慣で撮影しているような感じで」

 そう言われマキノは「ああー」と、声をあげた。なんとなく、状況も、撮影してしまう側の気持ちもわかる感じの、ああー、だった。

「そうしたら、ニセ警官の人が、その撮影している人に近づいて、スマートフォンを奪って、下に投げて。いえ、そんなことをしたから、ニセモノの警察の人だってわかった、っていうのもあります」

「たしかに、ほんものの警察の人はしない気がします」

 こくとくと、マキノはうなずく。

「しかも、ニセ警察の人は、撮影している人からスマートフォンを奪って、下に投げた後、ハンマーみたいなもので、スマートフォンを叩きわって。叩き割り方も、正気な感じがしない叩き方でした」

「あ、それはニセモノだ」

「その隙に逃げようと思いました。でも、足が動かなくって」

 ん、そのすきに逃げるわけじゃないとなると、どういうことだ。

「そしたら、撮影している人のスマートフォンを壊しているところを別の人が撮影してて、ニセ警察の人は、今度はそっとの人に向かっていって」ミズメは祈りのポーズのまま、身振り手振りを加えて話す。ちょっと、幼児のお遊戯会の動きみたいになっていた。「その人のスマートフォンを壊していると、さらにさらに、別の人が撮影してて、それでそれで! ようやく、わたし、はっ、となって、逃げたのです!」

 少し興奮したのか、大きく目をあけて伝えてくる。

 マキノは「すごい話だ」と、素直に驚いていた。「まさに現代社会だから実現できた、油断という感じがします!」

「ですよね、ですよね!」

 相手の反応のよさに、ミズメもうれしくったのか、やや息も荒くなる。妙なところで波長であったことも影響して、血が猛ったのだろうか、頬もかすかにあかくなっている。

 そんな、あかく色づく少女に、マキノの脆弱な精神は耐えきれる余裕はなく、すぐに「あ、あ、で、でで」と、話を先に進めて逃れようとした。「そー、それで、うちの事務所に逃げて来た………と?」

「あのパージュを通ったら、思い出したんです。ここには、むかしから探偵さんがいると、祖母から聞いていました、それに、わたしも通りかかるたびに、探偵事務所があるな、とは思ってましたし」

「え、もしかして、本を買おうとしてた古書店って、パサージュにある、あそこですか?」

「え、ああ、はい、きっとそこです。よく行ってます」

「うわ、そうだったのか」

 その情報を得て、マキノは頭をかいた。

「どうしましたか」

「いえ、あのこの本屋、おれほとんど行ったことがなくって」

「はい?」

「でももし、足しげくとか通っていれば、っていま想像してしまって」

「はい?」

「話、戻します」マキノは仕切りを入れて、話の流れを戻しにかかる。「じゃあ、うちの探偵に、依頼をしに来たんですか、最初から」

 問われたミズメは、一瞬、間をあけてから「その」と、声を漏らした。「パサージュを走って逃げてるとき、窓が開いているのが見えて」そういった。

「そういえば開けた、窓」

「あの探偵事務所の探偵さんは、少し前に亡くなったと聞いてました」

 そうさ、わたしは少し前に死んだ。

「なのに、あのとき、窓があいてて、わ、あいてるな、そう思ったら、やった、と思って、そしたら、わたし、あの階段をかけあがってて」

 話ながら興奮したのか、ミズメはさらに顔を寄せる。熱が入って、その熱が肌で感じられる距離だろう。マキノはかたまって、ただ、見返すしかできない。それも、禁じられたように視線を外すことができない。

 そして、ようやくしぼりだしたのが「そう、だったの………」と、一言だけだった。

「はい」

 と、返事をし、ミズメは、ふと、距離の近さに気づき、それでも、急に離れてしまうのは、失礼なのかと思ったのか、まずは静かに視線を外し、それから、そーっと、一歩だけ、後退した。

「ごめんなさい」

 ミズメはあやまり、橋下の影の濃い方へ身を寄せた。

 マキノの方は、半身だけ光の当たる場所にいて、彼女を見ていた。やがて、無意識の動きで、自身も影の濃い方へ寄った。

「あなたの探偵ならおれがします」そう宣言して、数秒後に「あ、わ、あれ? おれ、あの」と、あたふたしだした。

 まっすぐに宣言した直後、はやくもパニックである。

 しかし、そんなマキノを見て、ミズメはふいた。

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