【第12話】後藤の仮説

 航海日誌、Day 1557。

 監視下の生活は、僕の精神を静かに、しかし確実に蝕んでいた。唯一の救いは、夜の闇に紛れて、後藤主任の監視の目を盗んで会いに来てくれるミサキさんの存在だけだった。彼女が囁く「私が、あなたを守るから」という言葉は、呪文のように僕の心に安らぎを与えた。だが、その安らぎは、甘い毒のように僕の思考を麻痺させていくような気もしていた。なぜなら、彼女の瞳の奥には、僕を守るという強い意志と同時に、何か得体の知れない覚悟のようなものが宿り始めていたからだ。


 その日、ステーション内の空気が変わった。

『星島、天野。至急、ブリーフィングルームへ出頭せよ』

 後藤主任からの、有無を言わさぬ命令だった。僕は緊張しながら、ミサキさんと共にブリーフィングルームへと向かった。彼女は僕の手を固く握りしめ、「大丈夫」と小さく呟いた。


 部屋に入ると、後藤主任がメインディスプレイの前に立っていた。その背中からは、これまでの張り詰めた緊張とは質の違う、ある種の熱に浮かされたような異様な興奮が感じられた。


「星島、お前への容疑は一時保留とする」

 彼は、こちらを振り返りもせずに言った。

「どうやら、我々が対峙している敵は、我々自身の矮小な疑心暗鬼など、嘲笑うかのような存在らしい」


 彼がコンソールを操作すると、ディスプレイに、僕らの現在地を示す星図と、断片的な記録データ、そして黒塗りの多い極秘文書が映し出された。

「この『アルゴ・ノヴァ』計画には、公表されていない裏の目的があった。それは、この宙域で過去数十年にわたり断続的に観測されてきた、原因不明の知的生命体のものと思われるエネルギーパターンの調査だ。複数の無人探査機が、この宙域で『沈黙』している」


 僕とミサキさんは、息をのんだ。

「知的生命体……?」

「そうだ」後藤主任は、初めてこちらを振り向いた。その目は、狂気一歩手前の探求心に爛々と輝いていた。

「そして、私はその正体について、一つの仮説に辿り着いた。船長も、速水も、おそらくこれにやられたのだ」


 彼は、ディスプレイに表示したデータを指し示した。

「我々が遭遇しているのは、物理的な肉体を持たない、純粋なエネルギー生命体。あるいは、こう呼ぶべきか……『精神寄生体』だ」


 その突飛な言葉に、僕の思考は一瞬停止した。

「精神……寄生体……?」

「そうだ」後藤主任は、まるで講義でもするかのように続けた。「それは、知的生命体の精神に寄生し、宿主の恐怖や不信感、罪悪感を餌にして増殖する。そして、十分に増殖しきると、宿主の存在そのものを、その記憶や人格ごとエネルギーとして捕食し、“消滅”させる。だから、死体も痕跡も一切残らない。我々の船で起きた、全ての不可解な事件の説明がつく」


 船の異常も、僕の幻覚も、植物の枯死も、全て。

 その仮説は、荒唐無稽でありながら、恐ろしいほどの説得力を持っていた。


 僕の心に、真っ先に浮かんだのは、安堵だった。

 犯人は、人間ではない。僕ではない。僕の中にいるかもしれない「あの男」でもない。僕らは皆、人知を超えた、抗いようのない脅威の被害者だったのだ。それは、絶望の淵に差し込んだ、一縷の光だった。

 隣のミサキさんも、青ざめた顔の中に、わずかな安堵の色を浮かべているのが分かった。


 僕らが、その突飛な仮説にわずかでも救いを見出しかけた、その瞬間だった。

 後藤主任が、氷のように冷たい言葉を、ゆっくりと付け加えた。


「だが、問題はここからだ」


 彼の視線が、僕とミサキさんの間を行き来する。

「その“何か”は、どうやって我々を襲うのか。私の仮説では、それは常に『宿主』を必要とする。つまり、船長か、ジンか、あるいは最初から別の誰かに寄生し、その人物を操って、他のクルーを精神的に追い詰め、捕食の準備を整えているのだ」


 彼は、一歩、僕らに近づいた。


「その“何か”が次に狙うのは、残った我々の誰かだ。あるいは……」


 後藤主任の目が、僕とミサキさんを、まるで解剖するように、値踏みするように、見つめている。


「……もう既に、我々のいずれかに寄生しているのかもしれん」


 その言葉は、僕の心に芽生えたばかりの安堵の光を、一瞬でかき消した。

 安堵は、新たな、そしてより根源的な恐怖へと反転した。

 隣にいる、唯一の味方。僕を守ると誓ってくれた、ミサキさん。彼女が、あるいは、僕自身が、既に人間ではない「何か」に乗っ取られているとしたら?


 僕は、ゆっくりとミサキさんの顔を見た。彼女もまた、信じられないものを見るような目で、僕を見つめ返していた。彼女の瞳の奥に、先ほどまでの温もりはなく、ただ深い、深い恐怖の色が浮かんでいた。


 僕らの間に、決して埋めることのできない、疑心という名の深淵が口を開けた瞬間だった。

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