【第9話】二度目の沈黙

 航海日誌、Day 1553。

 昨日の言葉が、鉛のように胃の底に沈んでいる。僕は重い足取りでブリーフィングルームへ向かった。船長が消えてから、僕らは朝の定時連絡を、この部屋に集まって行うようになっていた。表向きは効率化のためだが、本当は、互いがまだ「そこにいる」ことを、自分の目で確認しなければ安心できないからだ。


 僕が部屋に入ると、既に後藤主任とミサキさんが、巨大な円卓のそれぞれの席に着いていた。二つの空席が、やけに目につく。誰も口を開かず、部屋には重い沈黙が満ちていた。


 やがて、定時連絡の時刻になる。

 後藤主任が、目の前のコンソールを操作した。

「後藤、異常なし」

 彼の報告が、部屋のスピーカーから、まるで他人事のように響く。これは、記録用の音声ログを残すための形式的な手順だった。

「……ミサキ、異常、ありません」

 ミサキさんの声が、か細く続く。

 僕もマイクに向かって「アキト、異常なし」と報告した。


 そして、後藤主任が最後のチャンネルを開く。

「速水、応答せよ」


 僕たち三人は、テーブルの上で手を固く握りしめたまま、スピーカーの向こうから聞こえてくるはずの声を、息を殺して待った。


 ……沈黙。


 ノイズ一つない、完全な沈黙だけが、ブリーフィングルームを満たしていく。後藤主任が、無言でジンの自室のバイタルセンサーのデータをスクリーンに表示させる。そこに映し出されたのは『NO SIGNAL』という、絶望的な文字列だった。


 僕は息をのんだ。隣に座っていたミサキさんが、はっと顔を上げる。テーブルの向こうでコンソールを操作していた後藤主任の指が、一瞬だけ止まった。

 誰もが、その沈黙の意味を理解していた。悪夢の再来。あの、船長が消えた日と、全く同じ静寂だった。


 後藤主任は何も言わず、ジンのチャンネルを二度、三度と呼び出す。だが、応答はない。彼は無言で立ち上がると、僕とミサキさんに視線を向けた。その目には、もはや驚きはなく、冷たい諦観のような色が浮かんでいた。


 僕たちは、まるで葬列に加わるかのように、重い足取りでジンの部屋へと向かった。

 この廊下を歩くのは、二度目だ。一度目は、まだどこかに「何かの間違いだろう」という甘い希望があった。だが、二度目の今は、ただ確定的な絶望が、僕らの歩みにまとわりつくだけだった。


 ジンの部屋のドアの前で、後藤主任は呼びかけさえしなかった。彼はただ、無言でマスターキーの認証操作を行う。

 重々しいロック解除の電子音が、僕の罪を告発するかのように、長く、長く響き渡った。


 ゆっくりと、扉が開かれる。

 そして僕たちは、船長室の時と全く同じ光景を目の当たりにした。

 もぬけの殻の部屋。整えられたベッド。争った形跡も、パニックの痕跡もない、不自然なほどに静まり返った空間。ジンは、そこにいなかった。


 だが、一つだけ、決定的に違う点があった。

 僕は、それを見て、呼吸を忘れた。


 ジンのベッドの上。その中央に、彼が自分の命の次に大切にしていたはずの工具類が、まるで軍隊の閲兵式のように、完璧に整列させられていたのだ。

 一番大きなレンチから、一番小さな精密ドライバーまで、大きさの順に、一分の狂いもなく、まっすぐに。丹念に磨き上げられた金属の表面が、薄暗い室内灯を、墓石のように冷たく反射していた。


 それは、狂気としか言いようのない光景だった。しかし、そこには同時に、恐ろしいほどの冷静さと、儀式的な様式美さえ感じられた。


「……あ……」

 ミサキさんが、声にならない悲鳴を上げた。後藤主任でさえ、その眉を深く顰め、絶句している。


 僕だけが、動けなかった。

 その整然と並んだ工具を見つめながら、僕の脳裏には、昨日の自分の言葉が、何度も何度も反響していた。


『お前の顔なんて、二度と見たくない』


 僕が、そう願ったから?

 僕の歪んだ心が、僕の汚れた言葉が、彼を、彼の存在そのものを、こんなにも『整然と』消し去ってしまったというのか?


 罪悪感が、現実と妄想の境界を侵食し始める。

 そうだ、僕がやったんだ。僕が、彼を消したんだ。

 昨夜、僕は眠っていたはずだ。だが、本当にそうか? 僕が眠っている間に、あの「鏡の中の他人」が、この部屋を訪れたのではないか? そして、僕の最も暗い願望を、こんなにも完璧な形で、実行してくれたのではないか?


 僕はよろめきながら、自分の部屋へと逃げ帰った。もう、ミサキさんや後藤主任の顔を見ることさえできなかった。


 航海日誌を開く。

 だが、そこに、もはやまともな文章を綴ることはできなかった。


『ジンがいない。工具。並んでる。僕が言ったからだ。「顔も見たくない」。僕が、消したのか? 違う。でも、僕が。誰か。誰か、僕が犯人じゃないと、言ってくれ。僕じゃない。あれは、僕じゃないんだ』


 ペン型デバイスが、震える手から滑り落ちた。

 鏡を見るのが、怖かった。

 そこに、あの男が立って、満足そうに微笑んでいるような気がしたからだ。

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