28.機能不全

「奥様、すみません……」


 テツオは首を横に振り、密着したラヴィア夫人の肉体を引き剥がす。 


「私、お恥ずかしながら……男性のアレがですね……機能不全を起こす病気なのです」


 そう告げると、ラヴィアの艶やかな唇から「へ?」といっそ可愛らしい音が漏れた。

 この世界にはまだその症状に対する認識が広まっていないのか、テツオは不安になり、もう一度虚言を口にする。


「あの……男して情けない限りなのですが、股間のアレが勃ち上がれない病気なのです」


 しっかりと、咀嚼しやすいように噛み砕くと、ラヴィアが両手で口元を覆う。


「それって……」


「その男性機能の治療のため、お金が必要でして……。ゆえにここに使用人として応募した次第で……」


「まぁ……」


「私も奥様と甘いひとときを楽しみたいのですが、今の私では奥様とその気持ちを交換するところに至らず……」


 言葉を濁しに濁して、気まずさを演出する。

 すると、その演技を間に受けてくれたのか、ラヴィアの瞳が申し訳ないとばかりに悲壮を浮かべた。


「ごめんなさい、私……知らなくて……」


「いいえ、私がいけないのです。これほど魅力的な奥様に求めて頂いたのに……」


 ──なんだろう。嘘なのにとても傷付く。

 下半身に宿るもう一人のボクが、『イヤだッ人妻とエッチしたい!』と訴えてくる。

 お腹を空かせた猫を見捨てるような、ひどい罪悪感だ。

 可哀想すぎる。自分が。こんな色気に溢れた人妻と行為に至れないなんて。


「奥様、私は……これにて失礼致します」


 潔く、その場を立ち去ろうとするも、ひどく後ろ髪を引かれる。

 エッチしたい。背徳感に撫でられながら、甘美な夜に身を投じたい。

 しかし、テツオは錆びたロボットのようにカチコチと部屋の出口へ向かう。

 もはや意地だ。不貞行為を許すまじという情念のガソリンと、屈辱に濡れた人生が作り出したエンジンが、テツオの足を動かしている。 


(カ、カ、カラダガ、キカイキカイ)


 わけのわからないフレーズを頭に浮かべながら、ロボットダンスさながらの歩み。

 そうして、ぎこちなく部屋の扉に手をかけると、


「その……本当にごめんなさい……」


 背後、ラヴィアが心底と申し訳なさそうな声音を漏らす。


「あなたを傷つけるようなことをしてしまって……ごめんなさい……」


 そう謝るラヴィアの上目使いが捨てられた子犬のように潤み、額にかかる一本の前髪が色欲を駆り立ててくる。

 まずい。早く退散しないと我慢できなくなる。


「気に病まないで下さい。あなたの心を晴らせなかった、至らぬ使用人風情でございます」


 ぽつりと溢して、テツオは扉を閉めた。

 その瞬間、下半身に血流が集中し、テツオの股間に山を作る。


(ギリギリセーフッ)


 振り切った途端の戦闘態勢。

 危なかった、もう少し躊躇っていたら、虚言がバレるところだった。


「勝てた……おっぱいに……あそこから勝てることある?」


 テツオが今まで見てきた作品のなかでは、フラグを立てた人間はことごとく負けてきた。


 家族に思いを馳せる者。

 殺人現場で単独行動する者。

 戦が終わった後に結婚を控える者。


 盛大に決意を口にすればするほど、物語の因果律は彼らに凄惨な敗北を突きつけてきた。


 だが、テツオは見事に勝利した。女体に負けぬと心内で咆哮を上げ、自分のプライドを痛めつけて勝利を勝ち取ったのだ。


 しかも、ラヴィア夫人の女性としての尊厳も守れたのではないだろうか。真っ直ぐ拒絶してしまえば、テツオは立場を危うくし、色々と冤罪を被せられて追い出されるのは目に見えていた。この城での活動の継続が絶たれていたところだ。


「やった。俺はやったんだ……誇って良い……絶対に誇って良いことだ……」

 

 そんな悲しい達成感を噛み締めて廊下をフラフラと歩く。

 今もあの豊満な胸の感触が頭から離れない。据え膳を食わないのは本当につらい。いっそカマキリのオスに転生し、交尾した途端に殺される方がマシなのではないか。


 そんな憂いを抱えた直後──

 眼球に焼けるような痛みが走り、テツオの膝が崩れた。


「──ッ!」


 たまらず地面に手をつき、顔を押さえて悶える。人妻を抱けなかった悔恨に、血の涙でも込み上げてきたのか。いや、そんな現象があるわけがない。

 悲鳴を上げそうになる喉を押し殺し、ただただ息を潜めて堪えていると、徐々に痛み緩和してくる。


「なんだ今の……」


 異世界ならではの、何かしらの失病にかかったのか。原因はわからないが、とりあえずミカゲたちのいる礼拝堂まで歩くことにした。


「あれ……」


 だがしかし、瞼を開けているにも関わらず、テツオの視界は闇に覆われていた。

 見えない。何も。やはり何かしらの病気にかかってしまったのか。


「くそっ」


 生暖かい痛みの残り香に悶えながら、壁に手をついてテツオは歩く。

 しかしどちらの方向に進めば良いのか判断がつかない。ラヴィア夫人の部屋から出たとき、右に曲がったのか左に曲がったのか、呆然としていて忘れてしまった。


「盗聴──」


 テツオはスキルを発動して、聴覚を研ぎ澄ました。

 右斜め下の方で、サトルの息遣いが聞こえる。


「チッ、チッ、チッ」


 そして次には、テツオは断続的に舌打ちを繰り返した。

 すると、壁の位置や曲がり角までの距離が曖昧ではあるが把握できる。

 盗聴スキルを取得しておいて本当に良かった。


〈エコーロケーション(反響定位)〉──コウモリが超音波で空間を認識する技術。

 映画の中で盲目の登場人物が駆使している技を見よう見まねでやってみたが、どうやらうまく扱えそうだ。


 音を出して、返ってくる反響を盗聴スキルによって向上した聴覚で捉えて、距離と形を測る。仕組みは単純だが、実際にやってみると、とんでもない集中力を要する。


「チッ、チッ、チッ……」


 舌打ちを繰り返しながら、壁伝いに歩く。

 反響の間隔が変わるたびに、曲がり角や壁の位置がぼんやり浮かび上がる。

 目は見えないが、音の地図が脳内に描かれていく感覚だ。


(急がないと……)


 盗聴スキルの継続使用により、テツオの頭と鼓膜に鈍痛が滲んできた。

 全身も冷や汗に覆われている。音の反射が少しでも乱れれば、壁に顔面から突っ込む。

 一歩一歩、痛みと緊張の糸を張ったまま進んでゆくと、舌打ちの反響が徐々に広く、天井が高くなっていく。

 空気が変わった。湿った匂いが少なくなり、微かに焼け焦げた臭いが漂ってくる。


(この感覚……礼拝堂の手前だな)


 エコーロケーションで描く空間の輪郭に、扉らしき影が浮かぶ。

 厚い木製の板が反響を吸収していて、奥の気配はまるで感じ取れない。

 サトルが〈認識阻害〉をかけているせいだろう。どんな音も、その内側で響くものすべてがこちらに認識できないようになっている。


「サトル君……いるか」


 低く声をかけると、すぐに返事があった。


「テツ兄ッ、どうしたん、その目!」


 声の位置は左斜め前、二メートルほど先だとわかる。

 サトルの慌てた足音が近づき、肩をガシリと掴まれた。


「目が……真っ黒や……鳥みたいになっとる……これは……」


 そんな見た目になっていたのか。と驚く反面、テツオは口元に笑みを浮かべてしまう。

 廊下からそんな真っ黒な眼球の男が歩いてきたら、ホラー映画としてかなり良い絵面だっただろう。


「テツ兄、その目はな……執行官スキルにかけられとる」


 サトルの張り詰めた声に、テツオは首を傾げる。


「執行官スキル? 執行官ってたしか──」


「地獄への誘い人や。あんたが何かしらの罪を犯したと執行官が判断して、天界からスキルを発動したんや。つまりは──」


 テツ兄は地獄に堕ちかけている。

 ──と、サトルの焦燥に濡れた声音が地に落ちた。

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