19.スケジュール

 翌日──

 面接を終えた次の日の早朝、朝露が漂う午前五時。

 グレゴドール城の礼拝堂には、すでに人の熱気が充満していた。

 高窓から差し込む光が、彩色ガラスを透かして赤や青の斑を大理石の床に散らす。

 最前列には公爵家の家族、後列には整列した使用人たちがひざまずき、一斉に胸の前で両手を組んでいる。


「創造神メノイラの御名において、我らは血を正しく継ぎ、罪を遠ざける──」


 壇上に立つドミニクス・グレゴドールが朗々とした低声で聖典を朗読している。

 黄金の髪を撫で付け、厚い装丁の聖典を掲げる姿は、もはや一介の貴族ではなく祭司の風格を帯びていた。


「では、サリア」


 父の視線が鋭く、愛娘を射抜いた。

 列の中央に座す十六歳の令嬢は背筋をすっと伸ばし、怯むことなく応じる。


「はい、お父様」


「今の一節、『罪』とは何を指す?」


 静謐な礼拝堂に、張り詰めた空気が走る。

 使用人たちが一斉に息を呑むなか、サリアは冷ややかな眼差しを落ち着かせて唇を開く。


「罪とは、創造主メノイラに背を向けること。その芽は無力、怠惰、そして不浄の欲。ゆえに我らは血を汚さず、勤勉に努め、己を律するのです。〝他者よりも優れる〟こと、それが神の寵愛に報いる祈りにございます」


 その声音は凛として澄み、十六歳とは思えぬほどに淀みがなかった。


「よろしい。メノイラはいつも我らを見守って下さっている。されど、それは我らから罪を遠ざけるためではない。神の寵愛を与えるに相応しい一族であるか、常に見定めておられるのだ」


 ドミニクスの語りに、礼拝堂の隅に控えるテツオは眉をハの字にする。

 なんて息苦しい宗教なのだろうか。『神が見守ってくれている』というのではなく、『監視している』という響きに近い。


「ゆえに、グレゴドールは創造主の愛に応えねばならない。賜りし天秤に誓って」


 高らかに言って、ドミニクスが背後に飾ってある〈黄金の天秤〉に向けて両手を掲げる。

 なんでも、グレゴドールの祖先が創造主メノイラから授かった〝神器〟であるらしい。

 

 あらゆる宗教には〈神器〉と呼ばれるアイテムが存在する。

 日本神話で言えば、八咫鏡やたのかがみ草薙剣くさなぎのつるぎ

 八尺瓊勾玉やさかにのまがたまなどの三種の神器がこれに該当する。


 脚本作りのためにある程度の宗教知識を把握しているテツオではあるが、神器とされるアイテムを間近で見たことがない。隙を伺えば、あの黄金の天秤を間近で観察できるだろうか。

 

[解析しました。金が七パーセント、銀が九三パーセントで構成されています。オリンピックの金メダルのような構造ですね]


 隣に座るミカゲから、夢をぶち壊すような報告がテツオの脳内に送られる。

 真面目に仕事するのは結構なのだが、あまり教えてほしくなかった。


「次、戒めの章へ入る」


 がっかりして溜息を吐いたテツオを余所に、礼拝はなおも続いてゆく。

 ドミニクスが聖典を閉じて次の節を開こうとした、そのとき──


「……?」


 ちらりと、サリア嬢がわずかに振り向き、意地の悪い笑みをテツオに送った。


「お父様、少しよろしいでしょうか?」


「……なんだ?」


「せっかく新しい従者が加わったのですもの。きちんと、創造神への信仰を理解しているか、ここで試させていただいても?」


 父が「好きにせよ」と顎をしゃくると、サリアの瞳がすぐさまテツオを射抜く。


「テッツォ、答えてみなさい」


 やはり来たか。恥をかかせるのは悪役令嬢の常套手段らしい。

 覚悟はしていたが、いざ舞台に上げられると緊張で心臓が忙しなく拍動する。


「メノイラが我らに与えた最初の戒めは何? それも答えられないのなら、このグレゴドール城に居座る資格はないわ」


 その厳しい声音に、場の空気がさらに重くなる。

 テツオは冷や汗をにじませながら、隣のミカゲと目を合わせて頷きを交わす。


「神が最初に授けた戒め、それは――」


 テツオは一瞬目を閉じた。脳裏にざあっと文字の奔流が広がり、昨日ミカゲから流し込まれた聖典の知識が蘇る。


「〈自らを律し、法を重んじ、迷える羊の群れを導きたまえ〉でございます。神は人に祝福を与えるのと同時に、人々の上に立つことを正統な血筋の者に許可されました」


 堂内がシンっと静まり返った。

 新参の使用人が即答したことに、一部の古参の使用人たちが目を見張る。


「……ふん」


 サリア嬢は唇を歪めて、冷ややかに眼を細める。


「言葉を刷り込まれたオウムみたいな答えね。けれど間違いではないわ。少なくとも、この場で恥をかかずに済んだことは評価してあげる」


 彼女はそう言って、横を向きながら小さく鼻で笑う。

 まるで「次はもっと難しいことを問うてやる」と言外に告げるように。


(あぶねえ……)


 テツオは胸の内で安堵しつつ、同時に冷や汗を拭う。

 これは普通にイジメられるよりタチが悪い。宗教知識によるハランスメントがこの先も続くのか。ねっとりと罵倒される方が面白みがあるのに。


 隣で膝をついているミカゲが、ちらりとだけ視線を寄越す。

 その微笑は「よくやりました」という労いと同時に、昨日の失態を負い目に感じている印象がある。


「さて本日も、神に誇れる一日を──」


 パタリとドミニクスが聖典を閉じて退出すると、グレゴドール一家がその背に追従して礼拝堂を後にする。

 一時間に及ぶ祈りの時間は終了し、ここから本格的に公爵家の一日が始まる。


     ◇


 グレゴドール家に朝食という習慣はない。

 神に祈りを捧げてから五時間は胃の中を空にして、清らかな肉体を保つらしい。


「つまらないわね。汚れた血ログノスどもの機嫌取りに、私が返事を書いてやる必要があるのかしら?」


 朝七時──部屋の隅でテツオとミカゲが控えるなか、サリア嬢はソファにゆったり座って手紙の束を机に放ってゆく。

 彼女が汚れた血ログノスと蔑称で呼んだ手紙の送り主たちは、聖典に記載されていない家系の貴族であるとか。


「我ら神聖なる血族と繋がってさえいれば、自分も神に愛されると思っているんだわ。哀れね、ほんとに」


 美しい顔立ちから冷笑を浮かべ、肩を揺らして手紙を指で弾く。

 まさに悪役、差別意識が高い。すぐにでもカメラを回したい衝動にテツオを駆り立ててくる。


「休暇中とはいえ、私の時間を浪費させるなんて……」


 サリア嬢は王立学院で高等教育を受ける身であるため、現在は春休み期間中。

 その間、毎日のように多くの学友や貴族から手紙が届くのだそう。


「配慮のない無能は、生きてること自体が罪ね」


 幻滅したとばかりに言い放ち、サリア嬢は読み終わった手紙に向けて嘲りを送る。

 だんだん可愛く見えてきた。口にしているのは侮蔑であるのだが、サリア嬢は随分とお喋りしてくれる。よく鳴く猫と思えば、むしろ微笑ましい。


「テッツォ、あなたが当たり障りないように返事を書いておきなさい」

 

 次の手紙を斜め読みしながら、サリア嬢がそんな指図をよこした。


「え……その、すべてに私が返事を書くのですか?」


「当たり前でしょ。使用人なのだから当然、やってもらうわ」


「ですよね……かしこまりました、お嬢様……」


 テツオは辿々しく応えて眉を引くつかせながら了承する。

 面倒な事を押し付けてきやがる。さっきまで可愛らしく思えていたが、忌々しいほどに迷惑だ。はやく春休み終えて学院に帰ってくれ。


[何通あるんだろ? あれのすべてに返信するの? 拷問じゃん……]


[私もお手伝いしますから、少しづつやりましょう]


 ミカゲの手伝いがあったとしてもかなりの負担だ。

 ただでさえ執事としての拘束時間が長いというのに。


[こんな忙しいと、調査官として動けるかな?]


 テツオは侮っていた。ネットもない世界の貴族のスケジュールなど、暇で暇でしょうがないものであると。しかし実際のところ──。


[予定表を整理します。ご確認を]


 ミカゲが告げると、テツオの視界にじわりと白文字が浮かび上がった。


──────────────────────────────

◆執事テッツォ・サクノルノと侍女ミカ・サクノルノの一日◆


早朝(4:30〜6:00)

まず身支度を整え、速やかにサリア嬢の寝室へ。

起床の挨拶を済ませて、サリア嬢は清めの冷水浴へ(テツオさんは浴室の外で待機を)

その後、着替えと整髪を終え、五時には礼拝堂に集合して祈りの時間を過ごします。


朝(6:00〜8:00)

約一時間の礼拝後、侍女と打ち合わせてサリア嬢の衣装の確認を。

七時に手紙や報告を整え(今ここ)、八時に家庭教師を迎え入れて本日の学習予定の確認。


午前(9:00〜12:00)

経済学や帝王学、ピアノやダンスレッスンに至るまで、ビッチリと学習時間が締めます。

その間、執事は教材や楽器の運搬を担い、授業中は傍らで学習する様子の見届けを。


ここで注意が必要です。恐らく、ドミニクス閣下にサリア嬢の学習態度などを聞き取りされる場合があると思われます。なので、しっかり観察をしておきましょう。


昼(12:00〜14:00)

家族揃っての昼餐。食後は庭園散策や乗馬に随行します。

屋敷の外に出る際は、護衛の役目も兼ねることを忘れてはなりません。


午後(14:00〜17:00)

裁縫や楽器の練習、読書と学習などにあてられます。

執事はこの時間に手紙の代筆や来客の予定整理を。

また、サリア嬢が退屈を覚えれば、雑談相手になることもお務めの内です。


この時間帯にご友人を招待してお茶会などが開催される日もあります。

情報収集するチャンスでもありますので、出来るだけ令嬢たちの会話を聞き取りましょう。


夕刻(17:00〜19:00)

夕食の準備と礼儀作法の確認。

席に着くことは稀で、多くは後ろに控え、給仕と進行を監督いたします。


夜(19:00〜22:00)

ここはランダムです。音楽会や舞踏会などの催しに随行するときもあります。

大抵は入浴のお世話をしますが、テツオさんは部屋の外で待機か、別行動を取れることも。

入浴後、サリア嬢は勉学の予習と復習、聖典の判読になります。


就寝前(22:00〜23:00)

侍女が就寝の支度を整える間、翌日の予定を確認。

神への祈りを終え、令嬢が寝室に入られたのを見届けてから執事も退室となります。


サリア嬢の誕生日も三週間後に控えていますので、これらスケジュールの合間を縫って事前準備を行います。


──────────────────────────────


 ブラックだ。自分の時間があまりにも少ない。

 テツオの余暇の時間が少ないのに比例して、サリア嬢もとても忙しい。

 常に人目に晒され、学習や交流に一日の大半を費やしている。


(生きてて楽しいのかな? 映画とか見せてあげたいなぁ)


(大変でしょうね。上流階級と言っても、とにかく神経と体力勝負の世界ですね)


 あれやこれや、常に先の予定が殺到する毎日を乗りこなすには、何か松葉杖心の支えとなるもの必要だ。

 彼女の場合はそれがメノイラ教なのだろう。自分は特別な存在であるという自尊心を補助してくれるものだ。

 学院でどのような振る舞いをしているかわからないが、血筋を掲げて他者を見下す毎日を送っていた場合、刺されるような反感を買っていても不思議ではない。


「退出なさい。授業時間まで本を読むわ」


 手紙を読み終えて、サリア嬢は退屈そうに手を払う。


「かしこまりました」


 テツオとミカゲは机に散らかった手紙を回収して、その場を後にする。

 そうしていそいそと廊下を歩くなか、ミカゲが潜めた声で言う。


「次は家庭教師の迎え入れですね。一応、サリア嬢を惨殺する恐れのある容疑者たちです。くまなくチェックしましょう」


 確かに、とテツオは厳かに頷く。サリア嬢の学習態度がよろしくない場合、積み重ねた憎悪の念が凶行に走らせてもおかしくはない。

 深く観察し、家庭教師の中で要注意人物を絞る必要がある。

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