第九話 展望台跡

 そんなこととはつゆ知らず、野田と美波の両名は山奥の展望台で息を整えていた。

 石段を上りつめた頂上に設けられた山中展望台。管理組合が解散してしまったため半野生化しており、猛獣等出没の警告標示とバリケードが施されているから人間はまず立ち寄らない。

 野田はその場所を、転移魔法による緊急避難先として選定していた。


「いきなり走らせてすまない。生徒指導の教師に追い回されていたのでな」


 野田は石造りのベンチにへたり込んだ美波に釈明する。美波は顔を上げて野田と目を合わせるが、三秒と経たずに逸らして、「生徒を指導する側が廊下を走るんだから世話ないわね」と立ち上がった。


 野田は腕を組み、美波は腕を抱えて対峙する。

 やはり美波は野田と目を合わせ続けていられず、目を逸らしてしまう。……が、それでも言葉だけは紡ごうとし、「あの」と言いかける。


「睡眠薬を盛られたことは気にしとらん。あれはお前の精神の不安定さと、それを軽く見積もりすぎていた俺の認識の甘さが招いた事態だ。お前だけのせいじゃない」

「……そんなことは」

「いや、そうなのだ。これは皮肉でも嫌味でもなんでもない。……自戒しているのだ。己の迂闊さを」


 アルミラージにも叱られてしまったからな、と野田はこぼす。

「え」と美波は目を見開き、


「アルミラージと会話したの? いつの間に?」


 それから野田は、美波が意識を失っている間のアルミラージとのやり取りを伝えた。

 美波は自分の経歴を他人に暴露されたことについて憤りは感じつつも、その場にいた二人と一匹の中で最も邪悪だったのは自分に他ならないのだし、文句を言える立場ではないのだと下唇を噛んで我慢した。


「俺と子を成そうとしたというのは事実か?」

「……誰でもよかったのよ。なんでもいいから、今の生活を根本的に破綻させるようなきっかけが欲しかったの」

「そのために睡眠薬入りコーラを保管していたと」

「前回は相手に抵抗されて無理だったから、今度は眠らせた状態でというわけね。……後はまあ、間違えて飲まないかなとか。家の人が」


 美波の良心はもう、風前の灯火ほどに消えかかっていた。

 だから野田は、本当に最悪の事態になるまでに、性急に美波が現在抱えている諸問題を解決しなくてはならなかった。


「その髪型、自分でやっているのか?」


 美波は長さがバラバラの毛先を弄りつつ答える。


「社会的に承認されるギリギリの自傷行為よ。肌を傷つけたりしたら母親から失望されるでしょうけど、髪なら言い訳が出来るわ。『自分で切った方が時間がかからないからその分を勉強に充てられる』って」「ちょっといいかな、君たち」


 と。


 唐突な第三者の呼び声に驚愕した二人は、一斉に同じ方向を見る。

 その長身の男は、肩から足首まで覆う一体型の白いワンピースを褐色肌の上から纏っており、長い黒髪を寒風になびかせつつ、裸足で落ち葉を踏みしめて立っていた。


「……なんだ、神か」と野田が呟き、美波は『神なの?』と内心で思いつつ一歩下がった。


「何かまだあるのか、共有すべき事項とやらが」

「……うーん、私も言うべきか迷ったんだけどね。ほら、神が人間に助言するというのは望ましくないことだから。大局を揺るがしてしまうことだからね」


 でもまあ、あんまり一人の人間に長い時間関わられていると、こっちとしてもじれったいからさ。と苦笑。


「何か知らんが、意思を固めてから来てくれないか。我々はいま忙しいのだ。夕陽台の母親をどうにかせねばなるまい」


「……そうだよねえ」


 じゃあ、このくらいがいい塩梅かなと、神は独り合点して告げる。


「君たちはダラダラ喋ってないで、早く夕陽台さんの家に行った方がいいよ。今ならあのプレハブ小屋に転移しても見つからないから、さっさと飛んじゃいなよ」

「信じた」


 と野田は美波の手を掴み、相手が慌てふためくのもお構いなしに転移魔法を唱えた。


 取り残された神は後頭部を掻き、


「大丈夫かな、あんな調子で」とぼやいた。



   *



 プレハブ小屋に転移した直後、アバドンは「行くぞ」と美波の手を引っ張った。

 神の口振りからして、夕陽台の住み家で何か緊急事態が起きているのだろう。こうなってはノンビリ作戦を練っている場合ではない。とにかく現場に急行せねばと踏み出したのだが、美波は踏ん張ってその場に留まり、ある一点を凝視して固まっていた。


「待って、……何あれ」


 美波の視線の先には、ローテーブルの上に転がった黒い棘。

 吸音材の一部のようだが、なぜこんなところに? と訝しみつつ彼女が拾い上げてみると、その先端に極小カメラのレンズが埋め込まれていることに気付く。


「なんだこれは」と肩越しに覗き込むアバドン。

「盗撮カメラでしょうね。……私があなたをこの部屋に連れ込んだことも、それから何をしたのかも全部、母はこれで知ったのよ」


 美波は血相を変えて駆け出し、ドアを開けて部屋から飛び出す。

 アバドンもその後を追って走る。


 何かあったのだ。

 だが、それが何であるかは、まだ二人には見当がつかない。


 野田は、庭の中央で足を止め、夕陽台家の立派な西洋建築を端から端まで見る。

 一階の中央に鳥の魂が見える以外には、何らの魂も見当たらない。

 この場に夕陽台の母親が居ないのは確かである。

 ではどこに?


 美波は玄関の前で立ち止まり、振り向く。野田はその傍に転移している。


「人間の魂が見当たらなかったぞ。この家の中には」


 美波は目を見開く。

 色々なことを考える。

 隠しカメラの映像を確認した後、母が繰り出すとしたらそれはどこ?

 目的は? 意図は?

 疑問は立て続けに浮かび上がるものの、パニックで思考が纏まらず、推測が出来ない。

 彼女はただ漠然と、嫌な予感だけがしていた。


「開けるぞ」と断り、アバドンはドアノブを掴んで引く。

 開いてしまう。

 なぜ鍵がかかっていない? と、美波はより混乱する。


 室内は暗い。アバドンは「土足で上がるぞ」と框を上がる。美波も有事の際のフットワークを優先して、アバドンに倣った。


 玄関から奥に向けて一直線に廊下が伸びており、その左右に壁と扉とがあるが、それらの部屋は後回しだとアバドンは判断する。

 廊下が真っ直ぐに伸びた先の一番奥の扉が半開きになっており、そこからヨウムの鳴き声が聞こえていたためである。


 アバドンを先頭に二人は廊下を進んでいき、最奥の部屋の引き戸を開ける。

 普段は小奇麗にしている部屋なのだろうな、とアバドンは思った。

 そのリビングは、大きな窓から日光が差し込み、調度品もシンプルに纏められていて、チリやホコリの類は落ちていなかった。

 その代わりに、吐瀉物が転々と床に撒き散らされていた。


 美波は口元を手で押さえ、言葉を失う。

 この嘔吐は十中八九、母親のものに相違ない。

 しかしこの家の中に、人間の魂は存在しない。


「タスケテ、タスケテ」


 部屋の隅に拵えられた大型の鳥かごに、ヨウムは入れられている。

 アバドンはその鳥かごを開けて中の止まり木を拝借し、閉じる。ヨウムはその間も「タスケテ」と女性の声で鳴く。


 そして美波を振り向くと、彼女は肩を震わせて自らを抱き締め、顔面蒼白になっていた。

 彼女が現在感じているのは、母を失ったかもしれないという絶望ではなく、意味不明の事態に対する動物的な恐怖だった。


「……なんで吐瀉物が錠剤まみれなのよ」


 過剰摂取。

 薬物中毒。

 自傷。

 自害。


 アバドンはリビング中央のテーブルの上に転がる、錠剤の入った瓶を手に取る。蓋がしておらず、四分の一ほどしか残っていなかった。

 その他にも卓上には薬の瓶や包装されたカプセル錠などが散乱していた。


「ラベルには風邪薬と書いてあるな。……母親は体調不良なのか?」


 美波は首を横に振る。


「いいえ。……この減り方はオーバードーズね。薬物の過剰摂取。多幸感や陶酔感を得るために呑んだと見て間違いないわ」


 アバドンは錠剤に塗れた吐瀉物を一瞥し、


「身体にかなりの負荷がかかる遊びのようだな。これほどまでに拒絶反応を来すということは」と分析する。


 またアバドンは、その吐瀉物が点々と間隔を開けて撒き散らされていることに着目する。

 誰かが吐きながら移動したのだとしたら、ここは終点ではなく始点。

 吐瀉物を奥へ奥へと辿っていけば、


「夕陽台はそこで待っていてくれ。万が一ということがある」


 アバドンは美波をドアの前に待機させ、吐瀉物を辿って部屋の端に進んで行く。ヨウムの鳥かごとは正反対の方向。

 カウンターを回り込み、キッチンに踏み入れると、コンロの前で吐瀉物は途切れていた。

 行き止まり。ではこれを吐いた本人はどこへ?


「野田! 後ろ!」


 美波に呼び掛けられてアバドンは振り向く。

 彼の背後の床に、先ほどまでには存在しなかった泥溜まりが広がっている。

 座布団ほどのサイズのその泥溜まりから、ヌウッとせり上がりつつ現れたのは、操り人形のようにグッタリと力の抜けた立ち姿で、全身から泥を噴き出して垂れ流している、花子の姿をしただった。


 話し合いが通じない相手と悟るや否や、アバドンは鳥かごから拝借した細長い棒を泥人間に向けつつ、


「夕陽台を逃がせ、アルミラージ」


 と命じた。

 夕陽台は瞬く間に退場し、この場には泥人間とアバドンだけになる。


「話に聞く限りでしか貴様のことは知らんが、ネルヌル泥の化け物に憑りつかれるとはな。……愚図で愚昧、他人の足を引っ張ることしかできない姑息生物。随分とお誂え向きだな」


 ネルヌルはただ呆けた面持ちで、口端から泥を垂れ流す。

 足元の泥沼だけが、ただひたすら拡張していた。

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