第七話 怪我の功名
このような事態はアバドンにとって、初めてのことではなかった。自分の身に何が起きているのかは即座に理解していた。
すなわち、転移魔法が失敗したのだ。体調を著しく崩している状態で魔法が不発し、本来なら肉体と魂とが両方とも転移するはずだったのが、魂だけ転移してしまったのだ。
そして、肉体をあのままにしておくわけにはなるまいとなった。状況だけ追っていくのであれば、夕陽台は野田の寝入りに頭突きをしたのだ。れっきとした不意打ちであり、何らかの気変わりであり、不審な彼女のそばに肉体を放置しておくわけにはいかなかった。
赤色のオーブは庭の上を漂い、プレハブ小屋の壁を貫通して中に入る。
野田の肉体は変わらずソファで眠りこけており、……夕陽台は、苦悶の表情を浮かべて床の上に横臥していた。
息はしているが、意識は失っていると見られる。……アバドンはまず、野田の肉体に憑依し直そうとした。魂だけの状態では何をするにも不都合だからだった。
しかし、アバドンはその憑依を完遂しなかった。
というのも、憑依した直後に強烈な眠気を覚えたためである。火事真っ只中の家に入ろうとすれば火傷するのは当然だった。
アバドンはだから、憑依してすぐに、さっきの転移魔法失敗の要領で幽体離脱した。今後もこのテクニックはどこかで使うだろうなと心に留め置き、今この状況でするべき適切な行動をと考える。
アバドンは考える。
このような事態は、夕陽台のみによって引き起こされたのではないのだろう。……彼女の目的は、野田を眠らせた後に「何か」をするためのはずだった。通常、睡眠薬を盛るというのは、入眠状態にある無防備な相手に「何か」するためだから。
だが夕陽台は意識を失っている。野田の肉体から離れたところで。……これでは意味不明である。何のために野田を眠らせたのか分からない。
仕方ない、とアバドンは意志を固める。
手段さえ選ばなければ、強烈な睡魔から立ち直る方法はある。気は進まないが、ただジッとしているわけにもいかないし仕方あるまい。……と、無い腹を括っていた時だった。
「……いててて、……こりゃコブになってやがるかもなぁ」
夕陽台が自らの額を撫でつつ、フラフラと立ち上がった。
ソファに座ったままの野田の肉体を見て独りごちる。
「どうしやがるかな、これは。……ていうか、なんで魂が抜けてんだ? 死んだわけじゃねえよな息はしてるみたいだし。……眠てなあ。考えるのは得意じゃねえんだよなぁ」
ブレザーのポケットから輪ゴムを一つ取り出し、髪を後ろに束ねる。
長い耳が取り柄の兎は、その耳が覆われることを嫌う。
「おい」とアバドンは、夕陽台(?)の死角から呼び掛ける。
不格好に髪を束ねた少女は両肩を跳ね上げてビックリし、その勢いのまま天井スレスレの大跳躍をして飛び退き、プロジェクターが照らす壁の前に着地した。
「貴様、夕陽台じゃないな。……アルミラージだな」
「……………………………………」
夕陽台(?)は中腰の状態で、下唇を噛みつつアバドンのオーブを見上げていたが、もう一度「おい」と呼び掛けられると仁王立ちになって腕組み、高らかに宣言した。
「な、何を言っているのよ。私は夕陽台美波でしょうに。どこからどう見たってそうなのよ」
「第5宇宙の人間はオーブを認識できないだろうが。なぜこの状態の俺の姿が見えて声が聞こえるのだ」
「うぐ、……は、謀ったな!」
「貴様がひとりでにボロを出したのだ。……知能の低さは変わらずか」
で、とアバドンはそのままの距離を保ちつつ、アルミラージに問い詰める。
「何を誤魔化そうとした? 貴様が夕陽台を名乗って何の意味がある。意図が分からん」
「……ただ動転してただけだっつーの。お前、自分がどんだけ沢山の魔物狩ってきたのか、自覚してんだろーが。そりゃビビッて身分も偽りたくなるよな。言わせんなよ恥ずかしい」
ていうか、ンなことよりもよ、とアルミラージ。
「お前、なんで幽体離脱なんかしてんの? 意識があるなら出てってくれよな。こんな真夜中に女子の部屋に居座るもんじゃねーって」
「出て行きたいのは山々なのだが、体が完全に睡眠状態に入っていて動かせないのだ。これではどうすることも………………」
そうだ、とアバドンは閃いた。
「なあ、俺の頬にビンタし続けてみてくれないか」
「え、キッショ。やだよ普通に。なんで?」
アルミラージは腕を抱えて顔をしかめる。何が悲しくて男の頬などビンタしなくてはならないのかと。
アバドンは毅然として答える。
「ほんの僅かでも覚醒状態にしてくれたらいいのだ。そうしたら後は俺がやる。そこから一気に目覚める方法があるのだ」
「……いや、そうは言っても…………」
アルミラージは躊躇う。世界最強の戦士に対し、自らの意思で牙を剥くのが恐ろしかった。
が、と思い直す。むしろこれはチャンスなのではと。
あのアバドンに一方的にビンタすることが出来る機会など、こちらからどれだけ願おうと二度と叶わないだろう。……世界最強に殴り放題できるという事実を再認識し、アルミラージの嗜虐心はメラメラと燃え上がっていた。
「まあ、そこまで言いやがるなら仕方ねーよな。俺みたいな下賤の下級魔物が何を突っぱねやがるんだって話だ。うんうん。そりゃ仕方ない仕方ない」
アルミラージは野田の膝の上に跨り、右手を高く振り上げた。
「いや、そんなに密着する必要は」
「まあまあまあまあ。この姿勢が合理的なんだから仕方ねえっての。歯ァ食い縛れよ」
「出来るわけがないだろう。意識が飛んでいるのだから」
「父の仇! 知らねえけど多分!」
アルミラージは野田の両頬を交互に激しく往復ビンタする。
「母の仇! 息子一号の仇! 娘一号の仇! 娘二号の仇! 息子二号の仇! その他息子と娘二十号ずつぐらいの仇! おらおらおらおらおら!」
「多産だな。だがそんなにアルミラージを殺した記憶はないぞ。アレは自分より強い相手と出くわすとすぐ逃げるからな」
三下呼ばわりすんじゃねえと叫びつつ、アルミラージは一心不乱に野田の頬をビンタする。息は切れ顔は紅潮し、口角は吊り上がっている。
一方、野田の肉体は顔をしかめ、唸り声を出していた。もう頃合いだろうとアバドンは転移魔法を唱え、憑依に成功する。
瞼をパチリと開き、眼光鋭く前方を睨むと、アルミラージはたちまちビンタを中断し、遥か後方の壁際まで飛び退いた。
「お、おお、……もう目覚めやがったんだな。僥倖僥倖。そしたらもうさっさと帰ってもらって…………」
アルミラージは野田が心変わりしないうちに出て行かせようと促すが、野田の耳にその言葉は入っていない。
彼は起き抜けた直後、己の左手の親指の爪を噛み、「フンッ」と剥がしていた。
プチンと爪の下の組織ごと引き剥がされる。指先は神経が集中しているためたちまち激痛が知覚される。剥き出しになった組織は風に触れるだけでも痛み、睡眠状態になど戻りようもない。
野田は無表情のままでいつつも、脂汗を額に滲ませ、指先から血を流していた。
「すまん、何か使い捨てのタオルなどあるだろうか。あいにく吸水性の高い布を持ち合わせていないのだ」
アルミラージはしばらく呆然としていた。
両目と口とを開き、ただ眼前のスプラッタな光景を眺めていたが、……徐々に眉が下がって険しい表情になり、
「お前ッ、何やってんだよ!」と叫んだ。
今度は野田が困惑する番である。何が相手の逆鱗に触れたのか分からず、ただ指先からだらしなく血を流し続ける。
アルミラージは人差し指を野田に向け、なおも喚きたてる。
「そういうことすンなら事前に言えよ! お嬢の部屋そんな簡単に汚してんじゃねぇよ! ンなことして
「いや、確かに俺にも非があることは認めるが、流石に何も片付けしないまま帰るつもりもなかったのだが」
「……いい。お前はとりあえず親指の根っこ抑えて止血しとけ」
アルミラージは屈伸し、反対側の壁際まで8mほど跳躍し、ドアノブに手を掛けつつ野田を振り向き、
「絆創膏とか布とか持って来るから。そっから動きやがるんじゃねえぞ」
と出ていきドアを閉め、その直後に外側からドアを開けて顔だけ室内に入れ、
「勝手に出歩いたらぶん殴るからな!」
と言い残して出ていった。
彼としては珍しく圧倒されっぱなしだった野田は、言いつけられた通り右手の親指と人差し指を左手の親指の根元に巻きつけ、強く握り込んだ。
*
アルミラージは、小さいバケツ型のゴミ箱の中に救急箱や除菌ティッシュなど入れたものを抱えつつ、プレハブ小屋に戻ってきた。
「お前はもう何もしなくていいから。じっとしとけ」
と制してから、野田の親指の根元にタコ糸を巻いてから絆創膏を貼ったり、床の掃除などし始めた。
「なんで俺に怒鳴られたのかイマイチ分かってやがらねえみたいだから、一から説明してやるよ」
アルミラージが説明するにはこうだった。
「まず、お嬢の母親がクソババアオブザイヤー殿堂入りチャンピオンって話までは聞いてやがるよな? どーせロクな理由もないくせに娘に対してずっと素っ気なく接してみたり、かと思えば勉強漬けにしてみたりとヤバめの毒親ぶりを遺憾なく発揮してやがったわけだ」
「そんな風に虐め抜かれてたら、精神的に病むのは当然だよな。……病んで病んで、それでも母親に認めてもらおうって勉強頑張ってさ。都内でトップの高校でないにしろ、トップクラスの高校に受かったのに、その時の母親の感想は『残念だったね』だとよ」
「しかも、塾の時間はそれを機により一層増やされて、お嬢の精神的余裕はドンドン削られていった」
「それなんだよ。お嬢が喘息で死にかけた原因は」
「心因性の発作ってやつだな。お嬢は夜中に雑居ビルを上ってる最中、それで死にかけて倒れた。……俺は、その隙を狙って入り込んだんだ」
「その当時の俺は純度100%の魔物だったからよ。ただ娘っ子の体を借りて好き放題暴れてやるつもりだったんだが、……お嬢は呼吸が落ち着いたら、また階段を上り始めてな」
「屋上に着いたら、そのまま飛び降りようとしやがった」
「俺はだから、咄嗟に魔物の力で向かい側のビルまで飛ばしてやったんだ」
しばらく傾聴していた野田は、ここで口を挟む。
「なぜ? 魔物の思考なら、そのまま死なせるのではないのか?」
「感化されたんだよ」
アルミラージはスマホのライトで床を照らしつつ拭きつつ答える。
「お嬢の賢さはマジだ。この人に憑りついてから俺の知能指数は元の千倍になった。今となっちゃこんな風に物を話せる頭があるし、……憑りついたばっかのその時でも、簡単な感情くらいは分かってやがったんだろうな」
「哀れんだのか、夕陽台を」
「そんなとこ。……で、話を戻すけどよ、お嬢はそうやって大跳躍したわけだが、そのスリリングな感じっつーか、自由な感じっつーのが、お嬢は物凄い気に入ったみたいでよ」
「だから、以降も力を貸していたと」
「善意100%でな。それもお嬢から学ばせてもらった気持ちだ。……お嬢はさ、パルクールしてる時だけは笑顔なんだぜ。覆面してるから他の連中には分からねえだろうけどな」
「すまなかった」
と、野田は両手を両膝の上に置いて、深々と頭を下げた。
「え、キッショ。何が?」
「俺は貴様のことを誤解していた。貴様が夕陽台に危険な遊びをさせるのは悪意100%だと思っていた。己の浅慮を恥ずかしいと思う。申し訳なかった」
「……や、別にいいけど。てかあんまり謝罪する時にパーセントとか言うなよ。日本語下手かよ」
アルミラージは「こんなもんかな」と掃除を切り上げて立ち上がり、野田の前のローテーブルに腰掛ける。
「で、ここまで言ったら俺がお前に怒鳴った理由が分かるんじゃないの?」
「……『ババアに勘繰られたらどうすんだ』とさっきお前は言っていたな。……何かしら自室で流血沙汰を起したことを母親に発見されたら、夕陽台が母親から失望されてしまうかもしれないからか。不良娘になってしまったと」
「お嬢は母親からの失望を恐れてやがる。だからパルクールにしたって姿を隠して人目を避けてやんだよ。不良な部分を母親に悟られねえためにな」
野田は冷蔵庫の方を顎で差しつつ、
「それならあの睡眠薬入りコーラも処分した方がいいだろうな。まあ誰かが飲まない限りバレない類の不良行為だろうが」
「……ん、まあそうだな」
アルミラージは少し、煮え切らない反応を示した。
その話題について触れることに。
難色を示していた。
「…………あの、さ」
俯いて、足先をモジモジと絡み合わせる。
「まあ、肯定しちまったから、今さら覆すことは出来ねえんだけどさ? アレは確かに睡眠薬入りのコーラなんだよ。……あ、ちなみに消費期限とかは大丈夫だからな。定期的に廃棄して、定期的に仕込んでるから。……うん、
もったいぶることでもねえや、とアルミラージは前置き、
「お嬢はお前と子供つくる気でいやがったんだよ」
と白状した。
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