第四十話 姉妹の絆
それは、光だった。
鴉羽戒が、その命と魂の全てを燃焼させて放った、最後の浄化の奔流。
その清浄にして、あまりに気高い一撃は、現実世界で禍々しい神気を放つ天逆鉾を砕くと同時に、時空を超え、日向詩織が飛び込んだ妹・澪の精神世界にも、一条の光となって降り注いだ。
そこは、永劫の夜に閉ざされた世界だった。
空はなく、地平線もない。
ただ、冷たく重い絶望の闇が無限に広がり、音という概念すら存在しない絶対的な静寂が魂を凍らせる。
詩織は、その闇の中心で、か細く震える小さな光をただ必死に抱きしめていた。
妹、澪の魂。
どれほどの時間、そうしていただろう。
詩織自身の意識もまた、この無限の闇に溶けてしまいそうになった、その時だった。
闇の天頂が、裂けた。
一条の、温かい光が差し込む。
それは太陽のように苛烈ではなく、月光のように冷たくもない。
夜明けの空の色をした、優しく、そして何者にも屈しない強い意志を宿した光。
(この光は……戒さん……!)
詩織は直感した。
これが、彼が命を懸けて繋いでくれた希望なのだと。
現実世界で、彼がたった一人、絶望的な戦いに身を投じ、そして、勝利した証なのだと。
その光に背中を押されるように、詩織は腕の中の小さな光――妹の魂を、さらに強く、砕けんばかりに抱きしめた。
「澪! 聞こえるでしょ! 私が、お姉ちゃんが、ここにいる!」
もはや声ではなかった。魂そのものが、妹の名を叫んでいた。
「目を覚まして、澪! 一緒に帰るの! あの日、約束したでしょ? 今年の夏は、二人で海に行こうって! リンも待ってる、父さんも母さんも、みんな待ってるんだよ! お願いだから、私の声を聞いて!」
過去の思い出、他愛のない約束、家族の笑顔。
その全てを言霊に乗せ、闇に閉ざされた妹の心の扉を必死に叩き続ける。
その、魂からの叫びが、ついに届いた。
怯え、闇の底でただ震えていた澪の魂が、ぴくり、と微かに反応する。
闇の中で見失っていた自己という輪郭が、姉の呼び声によって、再び形作られていく。
そして、その固く閉ざされていた精神の瞳が、ゆっくりと、ゆっくりと開かれていった。
そこに宿っていた、全てを見下すような冷たい黄金色の神の光は、もう、ない。
あるのは、詩織がずっと焦がれ、取り戻したいと願っていた、優しくて、少しだけ気の弱い愛しい妹の黒く澄んだ瞳だった。
「……お姉、ちゃん……?」
か細い、掠れた声。
だがそれは、紛れもなく澪自身の声だった。
何千年もの時を隔てたかのような、懐かしい響き。
「澪ッ……!」
「……ごめんね、お姉ちゃん……。ずっと、怖かった……。真っ暗で、寒くて、独りぼっちで……。でも、お姉ちゃんの声が、ずっと、ずっと聞こえてた……。暖かくて、だから、頑張れた……」
澪の瞳から、一筋、透き通った涙がこぼれ落ちる。
それは闇に染まることなく、真珠のようにきらめきながら、精神世界を流れ落ちた。
その、姉妹の再会の瞬間。
詩織の安堵と、澪の感謝。
二人の魂が、完全に一つに共鳴した。
『――オオオオオオオオオッ!!』
その時、二人の背後で、闇そのものが凝縮して生まれた八十禍津日神の精神の化身が、断末魔の咆哮を上げた。
姉妹の絆が生み出した純粋な想いの光は、災厄の神が巣食うには、あまりに清浄すぎたのだ。
闇のおぞましい影は、夜明けの光に照らされた悪夢のように、その存在ごと、端から霧散していく。
「さあ、帰ろう、澪」
「うん、お姉ちゃん!」
二人の魂が手を取り合った瞬間、姉妹の絆は純粋な光の奔流となって爆発した。
荒廃し、絶望に満ちていた澪の精神世界から、黒い霧が完全に消え去り、そこには、二人が幼い頃に駆け回った、夏草の匂いがする丘の風景が広がっていた。
そして、その奇跡は、現実世界へと完全に連動していた。
ゴゴゴゴゴ……!
戒の光を浴び、浄化された天逆鉾がその禍々しい輝きを完全に失い、錆びついたただの古びた鉾へと還っていく。
力の源泉を失った黒曜石の祭壇が、維持できずにガラガラと大きな音を立てて崩れ落ち、ただの石くれの山と化した。
スカイツリーの地下神殿を満たしていた、息苦しいほどの黄泉の穢れが、朝日を浴びた朝靄のように、跡形もなく消滅していく。
澱んでいた空気が清浄さを取り戻し、どこからか涼やかな風が吹き抜けた。
崩れた祭壇の中央で、気を失っていた澪の身体が、ゆっくりと横たわっていた。
その瞳から、不吉な黄金の光は完全に消え失せている。
そして、詩織の意識もまた、ふっと、現実の自らの身体へと引き戻された。
「……はっ……!」
冷たい石の床の感触、血と埃の匂い、そして、自分の心臓の鼓動。
全てが現実のものとして、詩織の五感に流れ込んでくる。
視線を上げると、そこに、安らかに眠る妹の姿があった。
終わった。
全てが、終わったのだ。
助かった。
澪が、帰ってきた。
歓喜が、津波のように詩織の全身を駆け巡った。
だが、その歓喜が頂点に達する、ほんの刹那。
パリン、と。
静まり返った地下空間に、まるで薄氷が割れるような、乾いた音が響いた。
詩織は、はっとして音のした方へ視線を向ける。
そこに立っていたのは、戒だった。
そして、彼女の目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
彼の左腕。
あの、幾多の死線を共に潜り抜けてきた呪われた黒鉄の義手が、その役目を終えた聖遺物のように、美しく、そして静かにひび割れていく。
亀裂から漏れ出した白銀の光が、やがて義手全体を包み込み、次の瞬間、光の粒子となって、粉々に砕け散ったのだ。
キラキラと、ダイヤモンドダストのように舞い上がる光の粒子。
それは、彼の罪と呪いの象徴であり、彼が振るうことのできた唯一無二の武器だった。
その義手は、もう、ない。
光の粒子が虚空に消えると、そこには、だらりと垂れ下がった空の袖だけが残されていた。
彼は、その左腕を失ったのだ。
そして、その身体を支える最後の力が尽きた。
伊邪那美命の使者も、天逆鉾の浄化と共に、その役目を終えたのか、すでに気配を消していた。
静寂だけが、支配する。
戒の身体が、本当にゆっくりと前のめりに傾いていく。
「……終わった、か……」
その安堵に満ちた、あまりに静かな呟きを最後に、彼は力なく血の海と化した床に、崩れ落ちた。
その光景に、詩織は我に返った。
妹が助かった。
世界が救われた。
その歓喜よりも、早く。
彼女の魂からの叫びが、がらんとした地下神殿に、悲痛に木霊した。
「――戒さんッ!!」
詩織は、解放されたばかりの妹の元へではない。
一瞬の躊躇もなく、血の海に倒れ伏す、一人の男の元へと、もつれる足で、必死に駆け寄った。
彼の身体を抱き起こす。
ずしりと重い。
命の重さだ。
彼の背中に回した手は、ぬるりとした生暖かい血で真っ赤に染まった。
彼の胸には、伊邪那美命の抜き手に貫かれた、致命的な風穴が空いていた。
もう、助からない。
その事実が、氷の刃となって詩織の心を抉った。
彼の顔は、不思議なほど安らかだった。全ての重荷を下ろし、長い旅路を終えたような、満足げな表情。
その顔を見て、詩織の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。
それは、もう、悲しみのものだけではなかった。
無力だった自分たちのために、たった一人で神と対峙し、その命を懸けてくれたことへの感謝。
絶望的な状況を覆し、世界を救い抜いた、その行いへの尊敬。
いつも憎まれ口ばかり叩いて、孤独で不器用で、けれど誰よりも優しかった男の、あまりに壮絶な最期への悲痛。
そして、もっと、彼のことを知りたかったという、叶わぬ願い。
全ての感情がごちゃ混ぜになって、ただ、涙となって流れ落ちる。
自らの命を懸けて仲間を、そして世界を守り抜いた一人の英雄。
その、あまりに気高い魂に、彼女は幼い子供のようにただ泣きじゃくることしかできなかった。
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