第一部 第二章「合理主義者の来訪」
第九話 詩織の焦燥
東京、西新宿。
地上四十階に位置する大手出版社「
ガラス張りの壁面からは、ミニチュアのようなビル群と、家路を急ぐ人々の流れが一望できる。
ここは、論理と言葉、そして締め切りによって支配された、現代社会の最前線だ。
その一角で、
彼女のデスクは、積み上げられたゲラ刷りの束と、企画書、参考資料で埋め尽くされている。
切れ長の目に知的な光を宿し、寸分の隙もなく着こなしたパンツスーツ。
彼女は、入社五年目にして人気雑誌の特集を任される、有能な編集者だった。
しかし今、彼女の頭を支配しているのは、画面上の赤字修正でも、次の企画会議の議題でもなかった。
(澪……今、どこにいるの……)
指先はキーボードの上を滑っていても、思考は常に、数週間前から行方不明になっている妹・澪(みお)のことでいっぱいだった。
心に重たい錨を下ろされたように、思考が深く、暗い場所へと引きずられていく。
この三週間、まともに眠れた夜はない。
仕事に没頭している間だけが、唯一、現実から逃避できる時間だった。
「橘さん、お疲れ様。例の作家さんの原稿、催促しといたよ」
隣のデスクの同僚が、コーヒーを片手に声をかけてきた。
詩織は、ハッと我に返り、作り笑顔を向ける。
「ああ、ありがとう。助かるわ」
「それにしても、大変だね、妹さん。まだ見つからないんだって?」
悪意のない、純粋な心配からの言葉。
だが、詩織の胸には鋭い棘となって突き刺さった。
「ええ……まあ」
「前に言っていた九州のフィールドワークで何かあったんじゃないの?山奥で道に迷ったとか……」
カチン、と心の内で何かが鳴った。
詩織は、モニターに視線を戻したまま、温度のない声で答える。
「そうだといいけど。警察に捜索願は出してる。でも、一緒にいたサークルの子たちの話が
「そっか……。早く見つかるといいね」
「ええ」
同僚が気まずそうに去っていくのを気配で感じながら、詩織は奥歯を強く噛みしめた。
苛立ちが、胃のあたりからせり上がってくる。
苛立ちの矛先は、無神経な同僚でも、動いてくれない警察でもない。
この、どうしようもなく非合理的な状況そのものと、それに対して何もできない自分自身に向けられていた。
詩織は、筋金入りの合理主義者だ。
世界は物理法則と
怪談やオカルトは、人間の脳が見せる錯覚か、あるいは単なるエンターテイメント。
そう割り切って生きてきたし、それが編集者として作品に携わる詩織の仕事のスタンスでもあった。
だが、妹の失踪は、その確固たる世界観を根底から揺さぶっていた。
警察の事情聴取に対し、澪と一緒にいたサークルのメンバーたちは、口を揃えてこう証言したという。
『廃社で、何かを見つけて……それに触れた途端、澪の様子がおかしくなった』
『急に、人が変わったみたいに……。私たち、気づいたら気絶していて』
『目が覚めたら、澪は……あの、どこかへ消えていたんです。まるで、何かに操られているみたいに……』
操られている?人が変わった?――馬鹿げている。
そんな非科学的な証言を、警察が真に受けるはずがない。
詩織自身も、彼らがパニックか、あるいは何かを隠すために、突拍子もない嘘をついているのだと、頭では理解しようとした。
しかし、心がそれを否定していた。
その矛盾が苛立ちとなって自身を苛んでいた。
妹のSNSを開き、最後に更新された投稿を何度も見返す。
九州へ発つ直前にアップされた、サークルの仲間たちとの集合写真。
中央で、少しはにかみながらも嬉しそうにピースサインをする澪。
霊感があるとかで、少し内向的なところはあったが、優しくて、真面目な、自慢の妹だった。
そんな彼女が、仲間を置き去りにして、理由もなく姿を消すなど、到底考えられなかった。
(何かが、本当に、私たちの理解を超えた何かが、澪の身に起きたとしたら……?)
その考えが浮かぶたび、詩織の合理主義な考え方がそれを打ち消す。
ありえない。
そんなことは、断じて。
だが、その否定の言葉は、日を追うごとに力を失っていった。
---
その夜、詩織は残業もそこそこに、オフィスを後にした。
しかし、自宅に帰る気にはなれず、会社近くのカフェで一人、ノートパソコンを開いていた。
警察が駄目なら、自分で探すしかない。
彼女は、検索エンジンに、考えうる限りのキーワードを打ち込んでいった。
『九州 廃社 失踪』
『古代神話
『大学生 集団気絶』
表示されるのは、信憑性のないニュースサイトや、個人のブログばかり。
何の成果も得られないまま、時間だけが過ぎていく。
焦燥感が、じりじりと彼女の心を焼いていく。
追い詰められた彼女は、無意識に、これまでなら絶対にクリックしないような言葉を打ち込んでいた。
『神隠し 呪い 相談』
表示された検索結果の中に、ひときわ異彩を放つ、古めかしいデザインのオカルト掲示板が紛れていた。
普段なら即座にブラウザを閉じるところだ。
しかし、その夜の彼女は、まるで何かに引かれるように、そのリンクをクリックしてしまった。
スレッドには、真偽不明の怪異体験や、呪いの相談が、
詩織は
その時、ある一つの書き込みが、彼女の目に留まった。
【タイトル:マジでヤバい案件専門の場所】
『都内でガチでヤバい案件に困ってる奴いる? 俺、昔、とんでもないモンに取り憑かれたことあんだけど、神主にも坊主にも無理って言われたのが、新宿の古物商で一発解決した。ただのじいさんかと思ったら、目がヤバい。報酬は高いけど、命には代えられねえ。曰く付きのモン専門だから、半端な気持ちで行くなよ。「鴉屋」って店だ』
書き込みの下には、手書きの地図の画像が添付されていた。
新宿の雑居ビルが立ち並ぶ、裏路地の一角を指し示している。
詩織は、その書き込みを、しばらく無言で見つめていた。
古物商?曰く付き専門?――馬鹿馬鹿しい。
ネットの
非科学的にも程がある。こんなものを信じるなんて、正気の沙汰ではない。
頭では、そう、はっきりと理解していた。
しかし、彼女の右手は、震えながら、デスクの上のメモ帳にペンを走らせていた。
「……こんな非科学的な話、信じるわけない」
呟いた声は、自分自身に言い聞かせるためのものだった。
だが、その声は空虚に響くだけだった。
彼女の脳裏には、警察官の困惑した顔と、「操られているみたいに」と怯えて語ったサークルメンバーの声、そして、最後に見た澪の笑顔が、代わる代わる浮かんで消える。
合理も、論理も、常識も、愛する妹の前では無力だった。
それが、詩織がこの三週間で思い知らされた、唯一の真実だった。
ペンを置き、彼女は「鴉屋」と走り書きされたメモを、強く握りしめた。
その紙切れが、地獄への招待状なのか、それとも唯一の希望の糸なのか、知る由もなかった。
ただ、もう、藁にもすがるしかない、ということだけは、確かだった。
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