パラダイス・リターン
破顔
1話 意味のない現実
もし地獄と天国があるならば、今ここはどんな
場所何だろう?
――――――――――――――――――
午前十時三分。
診察室のドアが閉まる音は、いつも激しく、
過剰にうるさかった。
いのりは白衣の袖をゆっくり引き上げ、カルテのページをめくった。
「田川さん、こんにちは」
言葉には波がなかった。
まるで水面の上を滑る氷のように、丁寧で、
冷たく、感情を乗せない。
田川幹也、38歳は、診察台の向こう側に座っていた。
目元に深いクマ、汗ばんだ額、指先をそわそわと動かしながら、何かを確認するように空中を見ている。
「こんにちは… あの…今朝もまた聞こえるんです… すごくすごく声が やばくて…」
カルテを確認しながら、ひよりは相手を刺激しないように質問する。
「はい、今日は声…ですか では、どんなふうにすごく、やばく、聞こえましたか?」
表情を変えずに刺激しない様にに田川に質問する。
田川の指が空中を描くように動き続ける。呼吸が早く、語尾がせわしない。
「右の耳からだけなんですよ…でも明らかに体に響いているけど…やっぱり外なんです、誰かが窓の外に立ってて、ずっと喋ってるんです。俺の名前を、こう、ずっと、――」
いのりはまぶたを半分だけ閉じ、カルテに小さく書き込む。
「話の内容はどうだったんですか?」
「え? あ、あの……俺があっち側に行かされるとか、今のこの世界は仮で、本当の世界はもっと奥にあるとか……昨日は赤い線って言ってました、赤い線を越えろよ! って。意味はわからないけど、でもあれは、なんか、リアルで……!」
声が大きくなってきている。
それに気づいた、いのりはカルテを読むことをやめ田川の目を見てゆっくりと話す。
「……先週と同じで、幻視と幻聴の可能性がありますね。あと田川さん落ち着いてくだ――」
田川が突然立ち上がり、目の焦点が定まらず髪をむしりながら、壊れた人形のように、ブツブツ話している。
「……それで、それで、それが赤い方だったんですけど、青が混ざって、いや違う、待って、えーと、木の中に、あれ? ほら、先生、窓が、窓が立ってて……そう、立ってたんです。わかりますよね、立ってるんです、窓が。そこからね、しゅーって、しゅーって音がして、俺の、俺の記憶が……ぐにゃって……!」
きてしまった…と。
先週の検診と同じまた、始まった。
口が崩れていくような話し方。
田川さんの、人の精神が壊れるのを慣れてしまって、何も感じない私も、異常なのかも知れない。
正解も質問も、どこにもない独り言をただ繰り返すだけ
いのりは暴走した田川に、一度も目を合わせないまま、机の引き出しから、クリニック用内線のハンドセットを取り出す。
ボタンを押す。迷いはなかった。何度もやってきたいつもの流れ。
「――診察室3、対応お願いします。応援二名、鎮静注射準備、患者パニック前兆、暴力性未確認。はい、以上です」
その間も、田川の声は続いている。
「先生、聞いているんですか!!これ、大事な話なんです、ねえ先生、あの、俺、俺が俺じゃなくなる感じって、わかります? 線が、言葉が、ねえ、赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い――」
それは言葉のようで、もう言葉ではなかった。
いのりは一瞬身構えるが冷静に話す。
「田川さん、落ち着いて。ここには誰もいません。声も、音も、全部幻聴なんですよ」
「――赤い赤い赤い赤い赤い赤い――」
その田川の言葉の連打が、唐突に切れた。
「俺の脳を覗くなって言ってんだァァァ!!」
次の瞬間、田川の右腕が顔に飛んできた。
拳というより、刃のような軌道だった。
いのりの頬が横に跳ねた。
視界が一瞬だけ白く飛び、耳鳴りの中にバンという乾いた音が残った。
叩かれた、と思うより先に、
「ああ、もう何度目だろう…」と脳が先に理解していた。
驚きも、怒りも、ほとんど湧かなかった。
田川は叫んでいた。何を言っているのか、もうわからない。
自分の髪を引っ張り、机の上の書類をかき乱し、ひとりで崩れていくように
いのりは、殴られ壁に押し付けられていた、
寝起きのような意識を失う中で、ドアが開かれるのを見た。
看護師が二人、素早く入ってくる。
一人は田川の身体を押さえ、もう一人は鎮静薬の注射を準備している。
「いのり先生、下がっててください」
その言葉にも、うなずいたかどうか覚えていない。
田川は子供のように必死にもがいている。
「俺の脳を覗くなって言ってんだよぉぉぉ!お前ら全員、こっち側の人間だろ!?騙してるんだろ!?全部お前らのせいだァァ」
田川は看護師達に連れて行かれた。
診察室3の外でいのりは、待合椅子で横になっていた。
頬がじん、と熱い。
腫れるほどではないが、しっかり殴られた感触だけは残っている。
病院の前には、警察のサイレンが鳴っている。
何度目だろう 人に殴られたのは、と考えているうちに田川を抑え、隔離した部屋から、看護師がドアを閉じいのりの所に、来て気遣うように言った。
「いのり先生 氷、持ってきましょうか?」
「……いえ、大丈夫です」
看護師は軽く頷き他の診察室に戻って行った。
待合椅子から起き上がり、頭を抑えながら思う。
この仕事は、本当に必要なんだろうか。
唐突に、そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
誰かの心を支えるはずの仕事だと憧れを持っていたけれど、実際には壊れるのを記録し、どうすることも出来ないまま見守るだけの日々。
命を止めるほどではない苦しみを、終わりなく淡々と受け答えしてするだけの仕事。
責めるのもダメ、不安にさせるのも、ストレスを掛けるのも精神状態を悪くするためタブーだ。
そういう職場、そうゆう業界、ただ患者と向き合うだけが、最善の治療だった。
自分の言葉は誰かを救っただろうか?
今までの自分に、意味はあるのだろうか?
答えは、どこにもない。
午後の診察の予定表には、あと五人。
これが私 如月 いのりの意味のない仕事と現実
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