第33話 接吻
一昨日は、知らない女の人が来た。名前は確か、松原っていったっけ。母さんと一緒に、ベッドの上で発狂する俺を宥めてくれた。
その人は神主をやってるみたいで、冷静になった俺に、お祓いもしてくれた。お祓いなんて初めてだったし、呪文みたいな祝詞の意味は何一つ分からなかったけど、不思議と心が落ち着いたのを覚えてる。
それにそのお祓いのおかげかな。今日寝た時に見た夢はいつもの悪夢じゃなくて、渚と秋山神社にお参りに行く夢だった。
「良し!お参り完了!色々教えてくれてありがとうね、晴馬君!」
拝殿の前で一礼を終え、渚は一足先にお参りを済ませていた晴馬に駆け寄る。
時期は夏だろうか。境内を囲う木々は青々とした葉をこれでもかと蓄え、時折吹くそよ風によってサラサラと心地良い音を奏でている。
天上の空は雲一つない快晴で、南の海のように澄んでいた。何だか、思いっきりジャンプをすれば宇宙まで突き抜けられそうだ。
そんな景色の中、晴馬は渚に微笑み返す。
「お兄ちゃんの受験、成功するといいね」
「大丈夫。こんなにしっかり誠意見せたんだもん、神様も絶対応援してくれるって!」
「そうだね」
渚と手を繋ぎながら、晴馬は背後の拝殿に改めて感謝を述べる。
(俺にこんな可愛い彼女が出来るなんて夢みたいだ。本当にありがとう、神様)
これから二人で何処に行こうか。神社で一緒にお参りに行く事以外、何も決めずに来てしまった。
二人で見れるような映画は今はあまりやって無かったはず。だったらカフェでも入ろう。文化祭の時みたいに、また渚と色んな事を話したい。
駅前の喫茶店とかどうだろう。あ、でもあそこチェーン店だからデートで入るのはあんまりかな。
それじゃ前に優悟と行った猫カフェに行くとか。ちょっと値段は高いけど、あそこの猫達、みんな人懐っこくて可愛いんだ。きっと渚も喜んで...
「...晴馬君」
渚の手を引き、境内の前の鳥居をくぐった時、掌の温もりがふっと消える。振り返ると、渚が境内に立ったまま、鳥居の向こうで寂しげに微笑んでいる。
「ごめんね。私、そこから先には行けないんだ。だから、ここでお別れ」
晴馬は、その言葉の意味が分からなかった。
「え、どういう事...?お別れって、この後何か予定でもあるの?」
晴馬の頬を風が滑る。涼しい空気が境内から鳥居を吹き抜け、参道へと駆けてゆく。
「ううん。予定とか、そういうのじゃないんだ。私はもう、晴馬君達と同じ世界には居られない」
風がまた、渚の髪をそよそよと揺らす。スポーツ女子の彼女に良く似合う、ショートヘアー。偶にそれを掻き上げる仕草が、晴馬は好きだった。
「何言ってるのさ...?同じ世界には居られないって...。変な冗談は止してよ。ほら、行こう!」
晴馬は境内に戻ろうとして、石段の途中で体の向きを変えようとする。だがその瞬間、二人を撫でていたそよ風が突風に変わり、晴馬の進行を阻んだ。風圧に怯み、晴馬は顔の前に腕を掲げる。そのせいで、渚の姿が見えなくなってしまう。
「晴馬君。これが最後だから、二つだけ言わせて。まずは、私と付き合ってくれて、本当にありがとう。結局一ヵ月とちょっとしか一緒にいられなかったけど、生まれて初めて出来た彼氏が晴馬君で、私本当に幸せだった。晴馬君、大好きだよ」
「何...言ってるんだ...!」
ごうごうと鳴る風の中でも、渚の声ははっきりと聞き取れた。晴馬は石段を登ろうとする。だが息が苦しくなる程の風圧で、足を動かすどころかその場に踏み止まるのがやっとだ。
「それじゃ、二つ目。晴馬君、お願い。どうか私のことを思い出さないで欲しい。これから晴馬君には楽しいことや嬉しいことが沢山待っている。私はその幸せを、一つも邪魔したくない。それに、晴馬君が今苦しい思いをしているのも、全部私のせい。だから、お願い。私の事、忘れて欲しい。私を好きになったこと、私と一緒にしたこと、食べたもの、過ごした時間。全部全部、忘れて」
「渚ッ!!」
風が一段と強くなる。晴馬は遂に耐え切れず、押し倒されるようにして背を石段に強打した。視界が一瞬だけ、空の青に染まったかと思えば、背中全体を駆け巡った痛みにぎゅっと目を瞑る。
「な、ぎさ...」
同じ世界には居られない。ここでお別れ。一体どういう意味だ。兎にも角にも、もう一度渚の手を取らねば。渚自身が進めないというのなら、自分が彼女を導けば良い。晴馬は痛みを堪え、身体を起こしつつ目を開ける。
「嘘...だろ...」
だが晴馬の目の前にあったのはいつもの、歪んだ鳥居とこじんまりとした拝殿だった。またあの悪夢に戻って来てしまった。当然そこに、渚の姿は無い。
「月が...無い...」
墨汁のような暗闇に染まる空の上には、いつも自分と境内を忌々しく照らしていた、あの赤い月が無かった。そのせいか周囲はいつにも増して暗く、その上異様にじめじめしていた。まるで蒸らした布巾を全身に張り付けられたようだ。
ギギギ...
空に気を取られていると、月と同じように、これまで一切の変化が無かった拝殿から音がする。視線を移すと、拝殿の扉がいつの間にか開け放たれていた。その奥にご神体が奉られている本殿があるはずだが、内部は真っ暗で、その詳細は一切分からない。
ケロケロケロ
蛙の声が聞こえ始める。その声に合わせるように、拝殿が一定のリズムで揺れ始めた。そして―
「ひっ...!」
扉からのそりと出て来たそれに、晴馬は息を飲む。
拝殿から何と、巨大なガマガエルが這い出て来たのだ。しかもただ大きいだけではない。真っ平な口の上には本来あるはずの目玉が無く、虚ろな穴が二つ、ぽっかりと空いていた。
ガマガエルは硬直する晴馬にゆっくりと近づいて来る。目が無いのに、晴馬の事を認識しているようだ。
「た、助けて...」
晴馬の口はうわ言のように助けを求める。だが当然助けなど無い。この夢を見ている間、現実にいる両親に何をされようが、晴馬は決して覚醒する事が叶わなかったのだから。
鳥居を挟んで数メートル位の距離になった時、ガマガエルはその大口をがっぽりと開く。口内は拝殿と同じように真っ暗だ。と、次の瞬間。その暗闇からぬらぬらとしたピンク色の舌が飛び出し、晴馬の左足を絡め取った!
「うわあああああッ!!??」
舌は晴馬を引きずり、口の中へと誘う。限界が来た晴馬は舌を外そうと暴れ回るが、舌は張り詰めた鎖のようで、晴馬の力ではびくともしない。
「助けて!助けて!!助けて!!!」
穴を掘る犬のように、両手で地面を何度も擦らせ続ける晴馬とは対照的に、カエルは舌を除いては時折喉を動かすだけでその場から微動だにしない。だが晴馬を飲み込まんとするその口は異様に歪んでいた。まるで獲物の最後の抵抗を嘲笑うかのように。
口に近づけば近づく程、湿気と生臭い臭いが強くなる。その不快感が、晴馬の力を奪っていく。
(もう、だめだ。俺、死ぬんだ...)
蛙の口しか見えないまでに引っ張られた時、遂に晴馬はそれを悟った。ゆっくりと目を閉じる。自分の死の瞬間を見届けられる程、晴馬は強く無かった。
「あれ...」
しかし目を瞑った瞬間身体が引きずられる感覚が消えた。飲み込まれる前に死んだのかと、晴馬は半ば自棄になって目を開ける。だが、まだ死んでいないらしい。見上げると口の淵の傍で二つの丸いものが忙しなく動いているのが見えた。どうやら蛙は目を取り戻したらしい。でも、どうして。
シュー、シュー...!
頭上から突然、ストローに息を吹き込んだ時のような音が聞こえて来た。晴馬はもぞもぞと身体を芋虫のように動かして視線を移す。そしてそこに佇んでいた存在に、再び息を飲んだ。
晴馬の後ろに、見上げる程に巨大な白蛇がとぐろを巻いていた。
全身を覆う鱗は水で濡れているかのように艶やかな光沢を放っている。宝石を纏っているかのようだ。細い舌をちろちろと出し入れする頭は矢尻のように先鋭的で、これまた宝石のような真っ赤な瞳で蛙を睨んでいた。
文字通りの蛇睨みを受け、蛙は完全に動きを止める。
シャーッ!
蛇が一際大きい声を上げ、真っ赤な口を開く。刹那、蛇はその巨体からは想像もつかない俊敏さで晴馬の上を飛び越えると、空中から蛙のいぼいぼの背中に勢いよく噛みついた!
ピーッ!と、醜い姿に似つかわしくない悲鳴を上げ、蛙は晴馬を離した。白蛇はそんな蛙に牙を深々と突き立て、体をくねらせながら上下左右に激しく振り回す。
鞭のような蛇の一撃で、石の鳥居があっけなく砕け散った。大小の残骸が境内に降り注ぐ。更に蛇は蛙を咥えたまま首を高くもたげると、拝殿の前で蛙を地面に力強く叩きつけた。
一回、二回、三回。蛙が叩きつけられる度に地響きが鳴る。長い体で締め上げるでも、一息に丸呑みにするでもなく、執拗に蛙を痛めつけるその姿は蛇の狩りというより、捕らえた獲物を弄ぶシャチのように見えた。
三回目の叩きつけでようやく、蛇は蛙を離す。蛙は無抵抗に転がされ、ピクリとも動かない。
それを確かめた蛇は再び大きく口を開け、蛙を頭から丸呑みにし始めた。顎を動かす度に少しずつ、蛙の姿が無くなってゆく。最初は頭、次に丸々と太った腹、最後に、ピンと張られた両足が蛇の喉へと消えた。そして蛙の姿が完全に消えたその瞬間、晴馬は纏わりつくような湿気が消えたのを感じる。
蛇が三度口を開ける。今度は上顎と下顎はほぼ真っすぐになる程に。蛇はそれを空に掲げた。刹那、蛇の口から、間欠泉の如き勢いで、大量の水が噴き出して来た。放たれた水は天高く上り、雨となって降り注ぐ。
すると雨が当たったその場所から景色が変わってゆく。地面も、木々も、拝殿も、そして空すらも、泥が洗い流されるように溶けてゆき、そして晴馬が気付いた時には、境内は渚とお参りをしたあの美しい姿を取り戻していた。
水を吐き終えた蛇が首を動かし、晴馬を見る。初めてそれに見つめられた晴馬だったが、その瞳には、とても今の今まであの蛙を痛めつけていたものが放っているとは思えない、温かで優しい光が宿っていた。
(この蛇が、秋水河姫神様...)
直感で晴馬はそう思った。彼女が、自分を救ってくれたのだ。
姫神が体をくねらせこちらに近づいてくる。雨に濡れ、その体はより一層輝いていた。光そのものが意志を持って動いているようだ。
「神様、ありがとうございます。貴方が居なかったら僕、あの蛙に飲み込まれていました」
目の前でとぐろを巻いた姫神に晴馬は心からの礼を述べた。それを聞いて、姫神の瞳に宿る光がより強くなる。
「あの、神様。大変厚かましいのですが、もう一つ僕のお願いを聞いては下さいませんか?」
そうだ。神様ならきっと、渚に会わせてくれる。渚と付き合えたのも神様のお陰なのだから。それで今度こそ、一緒に帰るんだ。
「僕の彼女の...渚にもう一度会いたいんです。彼女は何処に...」
ところがそれを言い終える前に晴馬は姫神に巻き付かれてしまった。
「か、神様...?」
だが晴馬はそれに恐怖は全く抱かなかった。何故なら全身に纏わる真白の身体が与えて来る圧迫感には、まるで強く抱擁されているような心地良さがあったからだ。
困惑する晴馬の頭上に姫神の顔が迫る。そこで晴馬は初めて気付いた。自分を見つめる赤い瞳に宿る光は母親のような優しいものから、女が好きな男に向けるような、熱情的なものに変わっていることに。
そして姫神はその甘い瞳を細めると、動けない晴馬の唇に、そっと口先を押し付けた。
蛇に接吻された。にもかかわらず股間に熱いものを感じた晴馬は思わず顔を赤らめる。
晴馬から口を離した姫神は直ちに拘束を解くと、開け放たれた秋山神社の拝殿へと戻ってゆく。一人置いて行かれた晴馬は
「ま、待って下さい!渚は、渚は何処にいるんですか!?」
と必死に問いかけるが、姫神はそれに一切応えようせず、瞬く間に拝殿の中に姿を消してしまった。
「そんな...」
瞬間、あの突風がまた晴馬を襲った。全身の感覚が分からなくなる程の強風に、顔を両腕で覆い、転ばぬよう足を踏ん張って必死に耐える。
(渚...渚に、会わないと...!)
晴馬の心はそれだけに支配されていた。ここでもう一度渚に会えないと、もう二度と彼女に出会えない。そんな気がして、ならなかった。
「...嘘だろ」
だが、その願いは遂に叶わなかった。風が止み、目を開いた時には、晴馬は自分の部屋のベッドに横たわっていた。
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