第2話 ポストに潜む、ささやかな悪意

穏やかな日々は、長くは続かなかった。


引越しから一週間が経った、月曜の朝のことだ。莉子を小学校に送り出し、さて仕事に取り掛かろうかと一息ついた沙耶は、郵便物を確認し忘れていたことに気づき、階下へと向かった。


メゾン・グリーンサイドの集合ポストは、エントランスの脇にひっそりと設置されている。


銀色の、何の変哲もないダイヤル式のポストが、蜂の巣のように並んでいる。沙耶は自分の部屋番号である「四〇三」のプレートを探し、ダイヤルを回した。


その時、ふと、隣のポストに奇妙なものが描かれているのが目に入った。


直径三センチほどの、黒いマジックで書かれたと思しき円。そして、その円を貫くように、右肩上がりの一本の斜線。


「……なんだろう、これ」


いたずらか、あるいは何かの目印か。沙耶は首を傾げた。そして、はっとしたように周囲のポストを見渡して、息を呑んだ。


その不可解なマークは、一つだけではなかったのだ。


ざっと見ただけでも、二十世帯以上あるポストのうち、四分の三、いや、五分の四ほどのポストに、同じマークが律儀に描かれている。


自分の「四〇三」にも、それはあった。


描かれていないポストも、いくつか散見される。例えば、自治会長の田中さんの二百一号室。井戸端会議の鈴木さんの百二号室。そして、いつも喧嘩の声が聞こえてくる若い佐藤夫妻の三百三号室には、マークがない。しかし、管理人の山田さんの百一号室には、しっかりと描かれている。


法則性が、まるで読めない。それがかえって、沙耶の胸にじわりとした不安を広げた。

その日の午後、マンションのエントランスは、異様な熱気に包まれていた。


「見ました奥さん、うちのポストにも!」


「これ、絶対に空き巣のマーキングよ! テレビでやってたわ!」


「なんて物騒な……警察には連絡したんですか!?」


案の定、最初の発見者の一人であった鈴木さんが中心となり、住民たちがポストを囲んで口々に不安を叫んでいた。その輪の中心で、腕を組み、険しい顔でポストを睨みつけているのは、自治会長の田中さんだった。


「皆さん、落ち着いてください! 私が責任を持って、この問題を解決します!」


田中さんはそう宣言したが、その声はわずかに上ずっている。彼の几帳面な頭脳も、この不可解なマークの前では混乱しているようだった。


そこへ、「いやあ、一体どうしたんですか、皆さんで集まって」と、のんびりした声とともに管理人の山田さんが現れた。


「山さん! どうしたもこうしたもないですよ! これを見てください!」


田中さんがビシリとポストを指さす。山田さんは「はあ」と気の抜けた返事をしながらマークに顔を寄せ、そして、ほんのわずかに、その表情をこわばらせたのを、沙耶は見逃さなかった。


「こ、これは……一体……」


山田さんは、わざとらしく首を捻ってみせた。そのぎこちない仕草が、沙耶には妙に引っかかった。


結局、その日は田中さんの提案で、夕方から緊急の住民集会が開かれることになった。議題はもちろん、「集合ポスト謎のマーキング事件について」である。


集会所として使われる一階の和室には、仕事を終えた住民たちが続々と集まってきた。沙耶も、莉子の手を引いて末席に座る。莉子は、大人たちの深刻そうな顔を不思議そうに見上げながら、膝の上のスケッチブックに視線を落としている。


「断言しますが、これは近年、都市部で多発しているマーキング強盗の手口です!」


集会が始まるやいなや、鈴木さんが声を張り上げた。配られたレジュメ(田中さん作成)には、「現状報告」「考えられる可能性」「今後の対策」といった項目が、真面目な明朝体の文字で並んでいる。


「この円は『家族構成』、斜線は『侵入の難易度』を示しているに違いありません!」


「いや、新興宗教の勧誘リストという線も捨てきれんぞ」


「ただの子供のイタズラでしょう。大げさですよ」


憶測が憶測を呼び、議論は紛糾した。誰かが何かを言えば、別の誰かがそれを否定する。普段は挨拶を交わす程度の隣人が、互いに疑いの目を向け始めている。


マークが書かれていない家の住人は、どこか肩身が狭そうだ。


沙耶は、この小さな共同体に生まれた、ささやかで、しかし確かな亀裂を感じていた。たった一つの、意味不明なマークによって、人々の心がいとも簡単に揺さぶられていく。その光景は、どこか滑稽で、同時に少しだけ恐ろしかった。


ふと、隣の莉子が、沙耶の袖をくいと引いた。


「ママ」

「どうしたの、莉子」

「あのマーク、お花みたいだね」

「え?」


莉子は、スケッチブックに描いた絵を沙耶に見せた。


そこには、例のマークがいくつも描かれ、その周りに花びらが描き足されていた。円が雌しべで、斜線が茎。言われてみれば、確かに花の絵のようにも見えなくはない。


「花の……絵?」

「うん。きれい」


子供の無邪気な発想に、沙耶はふっと頬を緩めた。そうだ、こんなものは、きっと子供のイタズラなのだ。大人たちが、勝手に意味を見出そうとして、騒いでいるだけ。


そう思おうとした、その時。


集会の隅で、一人、腕を組んで黙り込んでいた山田さんの顔が、やけに青ざめていることに、沙耶は気づいてしまった。まるで、莉子の言葉に、心の奥を見透かされたかのように。

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