第4話 ふてぶてしい優しさ

 熱が下がっても、すぐに外に出られるわけではない。

 咳が止まらなかったし、なんだか気怠げだった。それに、母の「今日は学校を休みなさい」という命令もあった。


 子どもというのは案外律儀で、言われたことには従う。そういうものだ。

 それに、僕は寒さがちょっと怖かった。あの夜の、窓の外でゴウゴウとなるときの音や、恐ろしい何かの顔のような天井のにじみが、まだ体に張りついていた。僕の脳裏から離れようとしなかった。


 だから僕は、ストーブの前で毛布にくるまっていた。特別、寒いわけではなかったけど。ただ、少し震えていたのだ。

 体はもう軽いはずなのに、心のどこかがまだふわふわしていて、現実にうまく着地できていない気がしていた。


 そこに、アトムがやってきた。


 ストーブの前は、いつもアトムの“特等席”だった。

 家の中で最もぬくい場所を、彼は日々の観察と経験により知り尽くしていた。

 その彼が、毛布にくるまっている僕をちらりと一瞥し、ちょっと迷ってから、毛布の上に乗ってきた。


「おまえ、まだ治りきってないだろ」とでも言いたげに、あごを僕の膝の上に置いて、目を細めた。もしかして、僕で暖を取りに来たのか?


 毛布の中で、僕はそっと彼の耳の後ろをなでた。

 そこは彼のお気に入りの場所だった。なでると、喉の奥で低い音が鳴った。


 ごろ、ごろ、ごろ。

 冬の午後、部屋の奥。外は寒く、中は暖か

い。

 ストーブの音と、アトムの喉の音だけが響いていた。それが何だか小気味よかった。


 


 その日、僕は絵を描いた。

 久しぶりにクレヨンを取り出して、ノートの裏に大きな猫の絵を描いた。茶色の少々短いクレヨンだった、気がする。


 まるまるとした体、長いしっぽ、まんまるの目。ふてぶてしい顔、傲慢な態度、独りよがり的な姿勢。

 だいぶにている気がした。ただ、どうしてもアトムに似なかった。書けば書くほどかけ離れていくばかりだった。後々、見たら微塵も似ていなかった。


 そこで僕は、「アトムは描けない」という結論に至った。

 

 彼の顔は“決まっていない”のだ。日によって、時間によって、機嫌によって、まるで違う。

 怒っているときは三角形だし、眠いときはだらしなく楕円形になるし、ごはんをねだるときはやたらかわいくなる。


 だから、僕はその絵に「ねこ」とだけ書いた。


 アトムを描けるのは、たぶんアトムだけだ。

 僕が描くと、それはもうアトムじゃなくなる。


 そう思ったとき、少し不思議な気持ちになった。

 大好きなのに、よく知らない。

 毎日見ているのに、うまく形にできない。


 だけど、だからこそきっと、僕は彼を好きなんだろうと思った。

 全部がわかるより、わからないまま一緒にいるほうが、案外心地よかったりする。


 


 夜になると、母が「おかゆ以外でも食べられそう?」と聞いてきた。

 僕はうなずいて、「卵焼き……」と呟いた。


 その瞬間、アトムの耳がぴくっと動いた。

 あまりにもわかりやすいリアクションだったので、僕と母は顔を見合わせて笑ってしまった。


「たまご、って言っただけで反応するなんてね。」


 母がキッチンに向かうと、アトムはぴたっと後をついていった。猫でも食べれるように。というよりは、僕の家族全員が薄味が好みなのだ。僕は何も調味料が入っていない卵焼きが好きだった。

 おかゆには見向きもしなかったくせに、卵の気配には全神経を集中させる。

 ……やはり年長者には年長者のこだわりがあるらしい。

 母は、卵焼きを調理し終えたら、切れ端のしっかり火が通っているところ。少し焦げてしまっているが、そこを少し与えた。

 


 そして、それ以上は食べなかった。

 なんというか──そう、「察してほしい」という態度だった。


「いまの俺は、あくまで“看病モード”だから。食い意地張ってるとか、そういうんじゃないから。ね?」


 そんな雰囲気だ。相変わらず、カッコつけたがりの猫だった。


 


 翌日には、僕は元気になって、また外の風を吸った。

 アトムはその日から、僕の部屋にはあまり来なくなった。

 階段の途中で寝ていたり、テレビの裏でほこりまみれになっていたり。


 あの数日間は、まるで特別なチケットみたいだったのかもしれない。


 ──弱った僕にだけ許された、期間限定品の“あたたかさ”。


 それは少し寂しいようでもあり、でもやっぱりうれしかった。


 


 風邪が治ったあと、学校の友だちにこう言われた。


「おまえ、二日間休んでたけど、なにしてたんだ?」


 僕はしばらく考えて、それからこう答えた。


「寝てた」


 相手は「へえ」と言って、あまり深くは聞かなかった。


 他の誰もが重要に思わないかもしれない。でも、僕の中ではその二日間が、どうしようもなく大事だった。


 ただ寝ていただけ。

 ただ毛布にくるまって、猫がそばにいた、というだけ。

 それだけのことが、どれほど心を救ってくれるかを、僕はそのとき知った。


 


 そして、今でも思う。

 たとえ記念日でもなければ、事件も起こらなかった日でも、

 あんなふうに、ただそばにいてくれることがあるのなら──


 それはきっと、奇跡だ。

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