【完結】祈りは魔に堕ちて― その祈りは、“あなた”へ ―

文士文彦

第一話:神の声と魔王の影

 神殿都市リオネア――聖域の中枢にて、青年神官リュカ・セレスティアは静かに跪いていた。


 淡い金の光が差し込む大理石の回廊。厳かな沈黙のなか、祈りを捧げる姿はまさに“神の器”と呼ばれるにふさわしかった。


 彼の瞼は伏せられ、指先は胸元で組まれ、白と金の神官服が光を帯びて柔らかく揺れている。

 やがて、心の奥――ではなく、頭の中に“それ”が降りてきた。


 


『リュカ・セレスティア。お前に命ずる』


 


 音ではない。“声”が心に響く。

 神の言葉。選ばれし神官だけが聞くことを許された、絶対の意志。


 


『魔の王ゼファル・ディオス・ネヴァレストを討て。その魂を浄化し、闇の源を封じよ。汝の祈りと命をもって』


 


「御心のままに……」


 リュカは静かに目を開き、息を吸い込む。

 その青い瞳は揺れず、ただ受け入れるように神前へと進んだ。


 聖職者として生きる以上、命令は“命”と等しい。

 それがどれほど重く、厳しいものであっても、リュカの心はわずかも動かない――ように見えた。


 


 ◇


 


 その日、聖騎士団の主力部隊と共に出陣したリュカは、魔王軍と対峙する最前線へと降り立った。


 緑豊かな丘陵地だったはずの地は、もはや見る影もない。

 燃え上がる森、えぐられた大地、無惨に倒れた兵士たち――。


 リュカは騎士たちの傷を祈りによって癒しながら、神託を胸に戦場を進む。


 


「神は、私にこの道を選ばれた。ならば、私は迷わず従う」


 その言葉を何度も心の中で繰り返す。

 しかし――どこかに微かな違和感があった。


 冷たい風。どこか湿った空気。

 まるで、何か“異質なもの”がこの地に降りてきているような、そんな気配。


 


「リュカ様! 下がってください!」


 副官の叫びと同時に、大地が揺れた。


 


 空気が、一瞬で張り詰める。

 その場にいた誰もが、息を呑むことしかできなかった。


 


 現れたのは、ただひとりの影だった。


 銀白の長髪が風にたなびき、紅の瞳がすべてを見下ろす。

 漆黒のローブの裾が、地面に触れることなく揺れる。


 その存在は、まるで空間そのものを支配しているかのようだった。


 


 魔王――ゼファル・ディオス・ネヴァレスト。


 


 リュカは思わず足を止めた。

 聖書の記述でしか知らなかったその存在が、今、目の前にいる。


「……逃げてください!」


 騎士のひとりが剣を振るう。しかし、その刃が届くことはなかった。

 ゼファルが手をかざすだけで、熱風のような魔力が騎士を吹き飛ばす。


 血が舞い、地が裂ける。叫び声が響く。


 だが――ゼファルはただ、リュカを見ていた。


 他の誰でもなく、まっすぐに。


 


「神官か?」


 その低く響く声に、背筋が凍る。


 だがリュカは祈りの構えを取り、前に出た。


「……聖なる神の名において、我は汝を裁く。闇に堕ちし王よ、その魂を神の光で浄化せん!」


 


 手のひらに力を込め、祈りの光を放つ。


 白金の光がゼファルに向かって飛び、眩い閃光が辺りを包んだ――


 


 はずだった。


 


 だが、光はゼファルの目前で弾け、消えた。


 何もなかったかのように。


 


「……神の光か。つまらん」


 ゼファルは一歩、また一歩とリュカに近づく。


 紅い瞳が、まっすぐリュカを射抜いた。


「殺すには、惜しい顔をしている」


「な……っ」


 リュカが言葉を紡ぐよりも早く、世界が傾いた。


 


 視界がぐらつき、意識が沈む。

 魔力に触れたわけでもない。ただ――温度も音も失われていく中で、最後に見えたのは、ゼファルがこちらに手を伸ばす姿だった。


 


(神よ、なぜ――)


 


 それが、リュカの最後の思考だった。


 


 ◇




 微かに香る香の匂いが、鼻腔をくすぐった。


 


 意識がゆっくりと浮上する。目を開けると、天井があった。

 だが、それはリオネアの白い天蓋ではない。石造りの重厚な天井、煤けたシャンデリア。空気は冷たく、どこか甘やかな腐葉の香りが混じっていた。


 


 リュカは、ふと身体を起こそうとして――すぐに全身の鈍い痛みに顔をしかめた。

 自分は、何があって……そう、魔王が現れて――戦場で、自分は――


 


「……夢、ではないのですね」


 


 その呟きは、誰にも届かない。


 部屋は広く、窓の外には月も星もない、深い闇の空が広がっていた。

 目を凝らせば、遠くに黒々とした山々と、荒れた大地が見える。まるで世界そのものが沈黙しているような光景だった。


 


 ベッドの縁に手をかけて立ち上がり、部屋を見回す。

 装飾のひとつひとつが異国風で、見慣れた聖具の影はどこにもない。

 唯一見覚えのあるものといえば――扉に刻まれた魔術封印の紋章だった。


 


(ここは……魔王の、城)


 


 胸の奥がざわついた。


 なぜ生かされたのか。なぜ、自分は殺されなかったのか。


 あの場で、自分が魔王に何を言った? 神の名で裁くと。光で浄化すると――それは彼にとって、最も忌むべき言葉だったはずだ。


 それなのに。


 


「……理解できません」


 


 神は、なぜ自分を助けなかったのか。

 魔王は、なぜ自分を囚えたのか。


 沈黙の中で、リュカの胸には、微かな不安が渦を巻いていた。


 


 ◇


 


「起きたか、神官」


 


 声が響いたのは、その翌朝だった。


 扉が音もなく開き、黒衣の男が入ってくる。

 銀白の長髪、紅い瞳――昨日、戦場で見たそのままの姿。


 魔王ゼファル。


 彼はまるで散歩でもするような気配で、部屋の中心へと歩み寄ってくる。

 リュカはすぐに礼儀正しく立ち上がり、膝を折った。神官として、それが当然の所作だった。


 


「殺さないというのは……私を、弄ぶためですか?」


「面白い解釈だな」


 ゼファルは小さく笑った。だがその目に宿る感情は、愉悦ではなかった。

 どこか遠くを見るような目。冷たい光の奥に、見えない何かが揺れている。


 


「神官。お前は神の声を聞く者だというが、いま、お前にその声は届いているのか?」


 


 その問いに、リュカの背筋が震える。


 自分でも、気づいていた。昨日から――いや、捕らわれた瞬間から、心の奥に響く神の声が、どこか遠くに感じられていた。まるで、霧の向こうで聞こえるような、不確かな響き。


 


「……神は、試練を与えておられるのです。私の信仰の強さを……」


「それは違う」


 ゼファルは静かに言った。怒りでも、蔑みでもなく。


「神が与えるのは試練ではない。ただの選別だ。“価値がある者”にだけ微笑み、“価値がない者”を沈黙の中に置く」


 


「……あなたに、神の何がわかるのですか!」


 


 思わず声が荒くなった。


 しかしゼファルは、その怒りを受け止めるように目を細めた。


 


「わかるさ。俺は、かつてお前と同じ“神の声を聞く者”だった」


 


 その言葉に、リュカは息を呑む。


 思考が追いつかない。魔王が、神官だったというのか?


 だがゼファルはそれ以上語らず、リュカの方へ一歩近づいた。

 その長身から伸びる指が、リュカの顎に触れる。


 


「……綺麗な目だ。壊すには惜しい」


 


 ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。


 けれどその中で、リュカは思ってしまった。


 その声は、冷酷なはずなのに、なぜこんなにも――寂しそうなのか、と。


 


 ◇


 


 ゼファルが去った後、リュカは静かに窓辺に立ち、祈りの言葉を口にした。


 しかし、神の声は戻ってこない。

 あれほど慣れ親しんだ“声”は、今や、無音の空に溶けて消えていく。


 


「……神よ。私は、間違っていますか?」


 


 答えはなかった。

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