真名街-シンメイガイー

小鳥遊ちよび

第一話『息を潜める街』


 俺が目を覚ました瞬間、鼻を刺したのは、埃にまみれたアスファルトのにおいだった。


 ……ここは、どこだ。


 視界を上げる。

 コンクリートのビル群が空を細く切り取り、閉ざされたような路地が続いていた。

 空はどこまでも灰色にくすんでいた。風も音もなく、鳥の影すら見えない。


 ……どこかの路地で寝ていた? いや、倒れていた……?


 静寂に沈んだ街で、自分の呼吸と心臓の音だけがやけに大きく響く。

 他に一切の音がないことが、かえって恐ろしく思えた。


 俺――さかき 一哉かずやは、ゆっくりと上体を起こし、自分の身体を確かめた。


 着ているのは、紺の学生服に赤いネクタイ――見慣れた制服だった。


 ポケットの中を探ると、ハンカチと、電源の入らない携帯。圏外どころか、画面すら点かない。


 路地を抜けると、二車線の道路と歩道が、まっすぐに延びていた。

 だが、その町並みに見覚えはない。

 完全に見知らぬ場所だった。


 車も、人影も、鳥の姿すらない。

 街路には影ひとつ落ちていなかった。


 灰色の空の下、異様に整った建物が並んでいた。

 完璧すぎるほどの清潔さが、どこか死臭にも似た、本能に語り掛けてくる気味悪さを放っているように思えた。


 なぜだろう。

 そこには、異様なほどの静けさと――“人の気配の欠如”があった。



 まるで「人がいた痕跡」だけを残した世界――そんな言葉が頭をよぎる。



     ◆  ◆  ◆



 数分歩いた先で、コンビニを見つけた。

 ドアは閉じていたが、一哉が近づくと、「チリン」と音もなく、自動で開いた。


 ――電力は、生きてる……?


 中へ足を踏み入れる。

 商品棚はきれいに並び、弁当もパンも、飲み物も揃っていた。まるで営業中のように。

 だが腐っていない。匂いもしない。


 賞味期限や消費期限の表示も――なぜか、どれにも記載がなかった。まるで、そんなものは存在しないと言っている。


 見回しても、人の気配は皆無。


 レジは開け放たれ、無人。カウンターの裏を覗いても、誰もいない。


 一哉は、ようやく声をかけた。



「あのー……すいませーん。店員さん、いませんかー?」



 ……返事はない。


 コンビニの外も、誰一人歩いていない。まるで時間だけが止まってしまったように。


 恐る恐る、バックヤードのドアをノックしてみたが――やはり、反応はない。


 意を決してドアを開けると、そこには商品棚がいくつも並び、誰も座っていないデスクが一つ。

 デスクの上のモニターだけが、無音で光っていた。


 映っているのは、監視カメラの映像。

 どの窓にも、人影はなかった。


 ……誰もいない。なのに、すべてがまるで誰かが来るのを待っているかのように、完璧に揃っている。


 ……それが、一番怖かった。


 バックヤードの壁に、姿見の鏡がかかっていた。


 映っていたのは、いつもの自分。

 地味な顔立ちに、制服。赤いネクタイも、ピシリと結ばれている。

 どこにも汚れや怪我はない。まるで――登校前の朝のように、きちんと整っていた。


 違和感が、胸に沈んだ。


 こんな状況なのに、自分だけが“変わっていない”。


 ……腹も減っていない。喉も渇いていない。


 商品は目の前にある。けれど、無人のレジに手を伸ばす気にはなれなかった。


 盗むようで嫌だった。


 結局、一哉は何も取らずに、コンビニを後にした。

 逃げるようにして――。



     ◆  ◆  ◆



 住宅街の間を歩いていると、不意に声が飛んできた。



「おい! そんなとこ歩いてたら危ないぞ!」



 驚いて顔を向けると、スーツ姿の男が、細い路地の奥から手招きしている。


 その声には、焦りと――今この場を支配している何かに対する、得体の知れない恐怖が混じっていた。


 一哉は一瞬、躊躇したものの――人の声を聞いたのは、ここに来てから初めてだった。


 警戒しながらも、その路地へ足を踏み入れる。


 中には、他にも人がいた。

 制服姿の中学生が二人、同年代の女子が一人。

 スーツ姿の女性、ジャージ姿の大人の女、小学生くらいの男の子。

 そして、作業服姿の男。


 見た目も年齢もバラバラ。

 だが、全員が――「気づいたらここにいた」と口をそろえる。


 一哉を含めて、九人。

 その集団ができたのは、ほんの一時間ほど前だという。


 それぞれ、出身地もバラバラだった。

 東京や大阪、四国や北海道――誰一人、共通点がなかった。


 一哉が、状況を詳しく尋ねようとすると――


 無精ひげを生やした作業服の男が、先に口を開いた。



「……建物には、入るな」



 声が低く、重たかった。


 その隣にいたスーツ姿の女性が、すぐに言葉を継ぐ。



「むやみに外も歩かない方がいい。よく……何かが、徘徊してるから」


「化け物です。でかいやつが多いから、広いとこは特にヤバいですよ」



 そう言ったのは、制服姿の中学生の男子だった。

 声は震えていたが、それでも必死に伝えようとしていた。


 他の者たちは、何かを思い出すように顔をしかめ、口を噤んだ。

 誰かが小さく、震えるように唇を噛んでいた。


 言われたこと、

 教えられたこと、

 そして、この不可思議な現実に、一哉は只々呆然とし、何一つとして呑み込めずにいた。



「君、高校生……だよね? 何も知らないの? 何か、見てない?」



 ジャージ姿の女性が、少し焦ったように声をかけてくる。

 一哉は首を振った。



「……いえ。僕も、さっき路地で目が覚めて。何も……記憶も曖昧で」


「そうか。まあ、ここにいる皆も似たようなもんだよ」



 スーツ姿の男が苦笑しながら言う。



「どうする? 一緒に行動するかい。正直、計画なんてないし、目的もない。……敢えて言うなら、“どこか落ち着ける場所を探す”ってとこかな」



 一哉は少し考え、頷いた。



「先ほど、無人のコンビニを見つけましたけど……」


「ああ、でもやめといた方がいい。化け物に入られやすいんだ、ああいう開けた場所は」


「……その、さっきから皆さんが言ってる“化け物”って、いったい……?」



 その言葉に、サラリーマン風の男は驚き、「そうか。まだ見てないのか……運がいいのか悪いのか」とこぼすと、軽く説明してくれた。

 というのも、彼らも詳しいわけではなく、一哉と同じく状況を呑み込めていないのだ。



「とにかく……あれは人間じゃない」



 スーツ姿の男が、眉をひそめて言った。



「姿はバラバラ。サイズも。まさに、B級映画に出てくるような“化け物”そのまんまだ」



 少し考えるように間を置いてから、口を開いた。


「例えば――」



「十メートル近くある、巨大な顔の塊。人間の顔が、何十枚も貼り付いたみたいなやつが、空を漂っててさ……目が合ったら、襲ってくる」


「あと、二足歩行のロボ。人間より少し大きいくらいなんだけど、両手に機関銃を持ってて、見つけたもの全部に撃ちまくる」


「見たよ、あれ……キマイラみたいな、でっかいライオン。いろんな動物のパーツがぐちゃぐちゃにくっついてた。地面、めちゃくちゃに踏み潰しながら歩いてて……」



 それを聞いた誰かが、震える声でつぶやく。



「……あのビルに入った人、見た……。叫び声がして、それっきりだった」


「中から……見てたんだ。何かが……“目”が……」


「道路が揺れてた……地下にいるのか……でかいのが歩いてるのか……」



 誰かが、吐いた。

 誰も、目を合わせようとしなかった。

 俺は、ただ呆然と、言葉を失っていた。



「この世界のルールは、たったひとつだ」



 スーツの男が小さく言った。



「“何か”を間違えたら、死ぬ。化け物に殺される。それだけだ」



 何を間違えたら死ぬのか。何を選べば生きられるのか。

 答えもないまま、俺は冷たい空気に包まれ、ただ呆然と立ち尽くしていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る