第22章

目的地まであと5分、と言ったところで赤信号に捕まった。

M市の、閑静な住宅街だった。

横断歩道を渡る人たち。

スーツを着た人、手を繋いで歩く親子、杖をついて歩く老人、それぞれが、それぞれの道を歩いている。

私は、後部座席で信号が変わるのを待っていた。

昨日の私が、明日の私が今目の前を通り過ぎて行った。

そんな感覚だった。


やがて信号は変わり、コインパークに車を停めようとした、その瞬間だった。

車の側面にズドンと大きな音を立てて車が突っ込んできた。

とてつもない速度であったため、他の車を巻き込みながら車は横転し、元の体勢に戻った。

エアバッグが物凄い音で開き、運転席と助手席を覆った。

ガラスは割れ、髪に紛れ、顔を引っ掻き、耳の中にまで入ってきた。

私は衝突した側とは反対に座っていたので、軽度の擦り傷などで済んだ。

助手席に座っていた痩身の女は、血を流し、エアバッグに体を預け、意識を失っている───と思いたい、死んでいるのかもしれない。

それまで正常だった心音が、大きくドッドドッドと脈打っていた。

「車を降りろ!走るぞ!」

と大きく言うと、意識のある者が車から這い出て、田辺を先頭に走り出していた。

衝突してきた車ももちろんグシャグシャの鉄塊と化し、運転席はエアバッグに覆われていた。

後部座席から何名か出てきたが、こちらには気づいていない様子で、我々の車に近付いて行った。

すると、パァン、パァンと音がした。

銃声だ。

非道なことをする、なんて輩なんだ、と思った瞬間、ふと気づいた。

命が奪われたのだ。

大きく疑問が浮かんだ。

「命が、奪われた?」

すると今までのことを全て思い出すかのように気づいた。

ただ手に馴染む、『報復の道具』だった銃は────本来命を刈り取る手段なのだ。

ただの破壊活動ではない、人の命を、容易く奪うことができるモノなのだと。

改めて思い知らされた。

気づいた。それなら、バナは止める。当然だ。

なぜ、気づかなかったのか。

私は走りながら、本物の恐怖に怯えた。

だが違う、これからすることは正義なのだ。

この国の闇として蔓延る、"メダカ"を排斥するのだ。そのために、データを壊し、水槽を壊し、今後若者の未来が泥に汚されぬよう、私は走っているのだ。

そう鼓舞した。

追手はまだこちらに気づいていない。

ここだ!と田辺が指したところの外見は三階建ての一軒家だった。

すると、他の道から同じく黒を身に纏った集団がゾロゾロと出てきた。

先についた集団がドアを開けると同時に1人が頭をのけぞった。

血が吹き出していた。

私は、愕然とした。

顔のパーツが、散らばり、宙に浮くのを見た。

私は、腰が抜けて転んだ。

次第に少し遅れてからまたいくつもの銃声がした。

乾いた、乾き切った音だった。

雨戸で閉じた窓を無理矢理に開け、入っていく集団を見た。

さらに銃声が増えた。

雪崩れ込むように人が中へ入っていく。

「何してんだ!立て!」と田辺に起こされ、また走らされた。

玄関まで行った。

かつて人だったモノがあたり一面に転がっていた。

俺たちは下のフロアだ!と田辺が怒鳴り、階段を駆け降りて行った。

パスコード式のドアを開けると、白衣を着た人たちが、震えながら銃を握り、こちらへ向けていた。

水槽と、PCがたくさんあった。

40台ほどだろうか。

私と同い年くらいの男もいた。

奥では女性たちがPCを囲み、震えながら銃を構えていた。

なんで?なんで人がいるんだ?水槽と、PCと、それだけじなかったのか?


彼らは、奪うのではなく、守るべく、銃を構えていた。

違う、違うよ、それはあっちゃいけないものなんだ、どいてくれ、どかないと他の人たちみたいに────


────ぅて…うて…撃て…撃て…撃て…撃てェ!

誰かが叫んでいた。

火花が散った。コンクリートの壁は剥げ、金属音が耳を打った。

気づけば、誰が誰に撃っているのかわからなかった。

色で判別するしかない。

黒、は味方、白、は敵…。

硝煙の立ち込める匂いが、窓のないこの部屋に、立ち込めていた。

私は、なんとか"めだか"だけの水槽と、PCだけ狙おう、と決め、慌てて銃をショルダーバッグから取り出した。

焦ってマガジンが一つ落ちた。

手持ちのマガジンは2個、今入ってる弾と合わせて21発、ダメだ、PCも水槽も、この弾数では、足りない。


1人と、目が合った。

その顔は驚きと、恐怖とで固まっていた。

怯えていた。

ただ、生きようとしていた。


目が合った、……撃てない。

撃てない。


撃ってしまったら────


「撃てぇ!!」

田辺の怒号に驚き、腕が震え、私は反射的に引き金を引いてしまった。

重力から逆らうように銃口は上を向き、乾いた破裂音だけが響いた。


どこにも当たらなかった。

ただ、コンクリートにあたり、弾が跳ね返ったのか、1人がうずくまった。

撃った事実がうまれてしまった。

もう、"やらなかったこと"には戻れない。


───何をしているんだ。

何を…誰を守ろうとして…誰を脅かしているんだ…?

俺は、今確かに銃を放った。

この右腕にジンジンとくる痛みと、硝煙の匂いでわかる。


足が震えた。

頭がぐらんぐらんとした。

耳鳴りがやまなかった。


ただ、俺の一撃で、誰かが死んだわけじゃない、よかった、ありがとう。

…ありがとう?なんだそれは。あまりに自分勝手やすぎないか?


銃声は鳴り止まなかった。

弾丸は私の右耳の上部を掠って行った。

興奮と緊張で、最早痛みは感じなかった。

在ったものが削れた。そうとしか思えなかった。

血が流れた、しかし、黒いジャンパーには血は染み込まなかった。


死ぬ、死ぬ、死んでしまう。

私は焦り、錯乱し、発狂し、ただ引き金を引き続けた。

PCだけ、水槽だけ、そう思えば思うほど、弾丸は明後日の方向に飛んでゆき、敵味方関係なく当たっていった。

もう、どちらでもよかった。

ああ、ああ、やり直したい、やり直したい。

"メダカ"の話なんか聞かなければ、"タガメ"の申し込みフォームなんて開かなければ、あの握っていた手を離さなかったら…。


恐怖が全身を覆い、失禁した。


田辺に怒鳴られた、反射的に彼に銃口を向け、引き金を引いていた。

田辺は絶叫した。

もうなにもわからなかった。

弾丸は田辺の右肩に入り込み、そのまま肩の向こう側へと抜けて行った。


その先でまた人に弾が当たった様子だった。呻き声のような、悲鳴が、聞こえたような気がした。

もうどこからも音が聞こえてくる。

音の主なんてわかるはずもなかった。

『人に銃口を向け、放ち、ダメージを与えた』

この事実だけで身の震えが止まらなかった。

じんわりと右耳の上部が痛くなる感覚が戻ってきた。

まだここからリカバリーは効くだろうか。

いや、効かないだろう。

制止を振り切り、闇雲に銃を撃ち、誰かを傷つけた。

その事実だけが今の私にある。

誰かを物理的に傷つけるのは、望んでいた形ではない。

そう、わかりながらも私は引き金を引き続けた。

弾が空になったことに気がついた。

もう出ていない。

次のマガジンを────装填した。

躊躇いが間違いなく、あった。

それでも撃ち続けた、死にたくない、少なくとも、こんな場所で。

死はリスペクトされるべきだ。

ここで死んだんじゃ…そう思った。

足元に転がった田辺が私を睨み、怒鳴りつけ、大きな右手で私の足を押さえ、左手で銃を私に向け、撃った。

どこにも当たらなかった。

だが、明確な殺意だけがあった。

私も反射して体をのけぞりながら田辺に銃を向けていた。

震えた指で───気づけばもう反射的に、震えきった指が自然的に弾丸を世に産み出し、私の手元から離れた。

田辺の顔は────顔だったところは、跡形もなくなっていた。

「ああ、あああ、あああ」

殺めてしまった。明確に、ハッキリと、私がやったことがわかる。

返り血でジャンパーは更に光沢のある黒へと色を変えていた。

「あああああ!!!」

もう動かない田辺に、何度も何度も撃ち込んでいた。


そうして私は、その場から走り出し、階段を駆け上り、逃げ出した。

何度もよろけた、転んだ。

人だったモノたちに躓きながら。

「ああっ、ああ」

誰かの飛び出た眼球が、転んだ際に掌で押し潰されていた。

私は嘔吐した。何一つ嘘のない、現実だった。

"メダカ"も"タガメ"もどちらももう正気ではなかった。

歪んだ正義と正義が形として現れていた。

ようやく玄関を抜け、走った、走った。

よく走れたな、と自分でも思う。

このありえない現実から遠ざかるよう、闇雲に走った。

1kmほど現場から離れたところで、「公安だ!」と大声が聞こえてきた。

国が動いた。これが田辺の言う『大きな事』なのであれば作戦は大成功である。

私はよろめき、電柱にもたれながら歩いた。


私はまた、独りになった。

誰もいなかったかのように。

冷たい空気が私だけを包んだ。


そう、私はまた独りになった。孤独を感じた。

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