第8章
少しして、二人は抱擁を解いた。
お互いに少し照れくさかったのだ。
少し見つめ合った後、鼻をすすり、少しだけ笑い合った。
「泣きすぎだよ」
「泣いたっていいって言ったのはどっちよ」
それでまた少し笑った。
お互い泣き疲れたのだろう。
目を充血させ、お互いにマグカップを手に取り、口にした。
すっかりぬるくなってしまっていたが、それでも、二人を温めるには充分な温度だった。
それから、彼女は語った。
"メダカ"の実情、ボーイフレンドとの別れ、それが積み重なっての涙と自傷行為。
全ての痛みを、私に共有してくれた。
"メダカ"の実情は"タガメ"にいた女性よりも凄惨な話であった。
男女が入り混じり、まぐわり、酒池肉林、"めだか"の放流、様々な川への出向。
健全なサークル活動というのはほとんど名目だけで、大学の一回生からもほとんどが酒を飲み、タバコを吸う。
そして性別関係なく交わり合い、"めだか"の情報を手にし、如何に川に定着させるかを学んでいくそうだった。
その"めだか"のデータの取り方、効率の良い育成法をカースト上位から得て、就職活動に繋げていくというものだった。
ボーイフレンドに"メダカ"のことを知られてからは(ボーイフレンドの友人にも"メダカ"で落ち込んだ人がいて、そこから情報を得たそうだった)、明らかに態度が変わり、そんなところにバナがいるということは彼にとって不快であったそうだ。
それで、決別となってしまった。
バナ自身も"メダカ"に疑問を抱いていたタイミングだったため、辞める良いきっかけになる、と思っていたがそのタイミングが重ならず、彼女の幸せは一つ取り上げられてしまった。
充血し、曇った目からは、どれだけの思いをしてきたのか、よくわかった。言葉にならないような想いをただただ話してくれた。
特に恐ろしかったのは、手洗いに行って戻ってから、酒の味が明らかに変わった時だったという。
それ以降、飲み会に参加せずにいたところ、活動意欲をD社に咎められるようになったという。
非道い言葉で、酷い内容だった。
彼女の"メダカ"での友人の話も聞いた。とてもではないが、おおよそ聞いてはいられないような内容だった。誰の子どもかもわからない、そんな内容だった。
彼女はポツポツと語り、時々苦しそうな表情を浮かべながら、全てを語ってくれた。
私が駅前の"めだか"で女性の声がした、という話にも答えてくれた。
エレベーターは乗っていると四角の箱の中にいる感覚になるが、実は筒状になっており、6階に着く前に何度かボタンを押すと回転し、鯉程の大きさの"めだか"を飼育しているバックヤードに着くようだった。
それで女性たちの声は聞こえなくなったのか、と私は合点がいった。
映画のようなギミックを搭載したエレベーターをも作れる技術がD社にはあったのだ。
ラーメン屋での話も問うた。
そのラーメン屋でもらえる"めだか"はD社が作った試作品であり、出来損なったものを販売しているのであった。
その出来損ないの"めだか"には小さなICチップが搭載されており、どのような飼育環境下で強く成長するかどうかを調査しているとのことだった。
どれだけの技術があるのだ、と恐ろしく感じた。
当然、深くD社の闇に浸かっていたのだから、簡単にその邪悪なるサークルを辞めることができないのだと続けて彼女は言う。
辞めた後もスマホの検閲が行われたり、住居を変えたとて、情報の漏洩が起きないかをとことん詰められるのだと言う。
こんな話を私にして良いのか?と確認をとったが、さすがに個人同士のやりとりまでは検閲できないらしい。
箝口令が敷かれているが、どれだけ厳重に取り締まったとて、必ず抜け穴はあるのだから、古本屋にまで"メダカ"の問い合わせが来るのだろう、と彼女は推察した。
"タガメ"でも同じような話を聞いたな、と思い、全てを私は飲み込んだ。
「とにかく、"メダカ"から抜ける事を考えなくちゃだね」
「うん、どれだけ生活が縛られたって、絶対辞める」
「サークル活動しなくたって、十分に就活のノウハウは得られたでしょう」
「うん、ちゃんと正規のルートで就活する。もうあそこには戻れないし、戻りたくない」
「就活が全てじゃないし、とりあえず気楽に考えよう。なにがどうあれ、よく頑張ったね、すごく強いよ」
「こんな思いするくらいなら、もっと、ちゃんとした大学生活を送れればよかった。バイトに行って、先輩とバカ話しながらタバコを吸えてた方がよっぽど幸せだった」
「まだ間に合うよ、大丈夫さ」
「ありがとう。こんな取り留めない話、たくさん聞いてもらっちゃって」
「その話を聞くために、今日は会おうと思ってたんだ。これ以上はないよ。よくできた一日になったと思う」
時計の針はすでに18時を指していた。
ずっと話し続けていたのだ。
バナはぐったりとした表情だった。
無理もない。
過酷な内容の話だった、どれひとつとっても胃もたれし胸焼けするかのような、脂っこい味がした。
そして私はやはり彼女を尊敬するしかなかった。
彼女の軸の強さに驚いた。そして弱いところを数時間で見せてくれたことに、何度も驚いた。
途中から彼女は私の手を握り、とても辛そうに話を進めたのだ。
どれだけ苦しかったか、寂しかったか、怖かったか、話から汲み取ることができた。
もうサークルの中に彼女の居場所はない。
私自身が居場所になれれば、と何度も思った。
そうなれていないことに、苦味を感じた。
だが、こうして頼ってくれたのだ。その想いに、何か応えなくてはいけない。
とうに怒りを通り越して、感情はどこまでも彼女に寄り添っていた。
19時をまわった頃、彼女は眠たそうに目を擦った。
何時間も飲まず食わずだったのだ、疲れや昨晩眠れなかったことも考慮して、デリバリーサービスを使って、ハンバーガーをオーダーした。
すぐにそのハンバーガーは届き、とにかく口にした。
彼女は「おいしいね」
と穏やかな表情でこちらを見た。
私には味がしなかった。
食事が進まなかった。
なんとか答えるべく、おいしい、とただ口にした。
21時になった頃、すっかり落ち着きを取り戻した彼女は、大学であったユニークな出来事を語り、少し余裕ができた様子だった。
ここから家まで2時間かかる彼女だ、そろそろ帰って眠った方がいい、と私の提案に彼女は賛同した。
駅まで送るよ、と、部屋を出た。
暖房の暖かさに浸かっていた私たちにとって、この寒さは少し堪えるものがあった。
道中、彼女はずっと私の手を離さなかった。
今はこうしていたい、と彼女は言った。
そして改札まで向かい、入場券を買い、電車が来るのを待った。
ほんの数分だったが、それが何時間にも感じた。
ただ、手を繋いでいた。
やがて電車が来た。
繋いでいた手を離し、何万歩よりも距離のある一歩を踏み出し、電車に乗り、振り向いてこう言った。
「今日はありがとう、少しスッキリした」
今までに見たことのない、本当に心から穏やかな表情で感謝の意を伝えてくれた。
「またいつでも電話しておいで、バイトにもおいでな」
「うん、ありがと、絶対電話するし、バイトも行く」
そう告げるとドアは閉まり、彼女を乗せて電車は走り出した。
見えなくなるまで小さく手を振った。
それもほんの数秒だけだったが、何分にも感じた。
彼女は行った。
私は一人、改札を抜け家路に向かった。
部屋に戻ると、彼女が吸っていたタバコの匂いとハンバーガーの匂いが鼻についた。
窓を開け、換気をした。
冷たい空気が部屋に流れ込んできた。
それでようやく目が覚め、改めて今日聞いた話の重たさを実感した。
まだ、彼女の痛みを一つ共有できていなかったな、と、ふと、I字のカミソリがあったな、と思い、洗面台に向かい、そのカミソリを手に取り、左手首に当てた。
少し深呼吸をし、思い切り手中にあるカミソリを引いた。
ジワっと痛みがやってきた。
血が滲み出てきた。
痛い。
だが不気味にも心地よく感じてしまった。
常に死について考える病を患う私にとっては、これで毎晩惨めな思いをしながら眠りにつかなくて済むのなら、と思い何度も何度もカミソリで引っ掻いた。
彼女が感じた痛みのほんの一部を、知れた。
何度か線を引いたところで、飽きが生じた。
手は止まった。血はじわじわと流れ続けていた。
この程度では死ねないな、と認識し、その場で服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
服に血がついたが、気にならなかった。
ポタポタと浴室の床に血が垂れ続けた。
それを誤魔化すかのようにシャワーを浴び続けた。
血は流れていった。
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