第1章
陰鬱で光のない生活を送ってきた男に対しても、興味を示す女がいた。私がバナと呼ぶ橘稚菜(たちばなわかな)である。彼女は古本屋のアルバイトで知り合った後輩で、四つ下の可愛らしく、しかしどこかミステリアスで、儚げな女性である。
彼女との喫煙所での何気ない会話は、陰鬱とした私の人生に少し花を添えてくれるようで、とても大切にしていた時間である。そして私は彼女に恋していた。
だがある日の休憩時間での会話は私の人生の歯車は更に歪で不思議な回転をするようになったように思う。
それまでの日常が静かな水面ならその会話は小石を投げこんだようだった。
「先輩に"メダカ"の話はしたっけ?」
黒く長い髪をかきあげ、彼女は話を振った。
「魚の話?飼っているんだっけ?」
「話してないか、サークルの名前なの。おもしろいでしょ」
「サークルの名前が"メダカ"?ずいぶんユニークなサークル名だね」
「そう、面白いでしょう。これがさ、最近ずいぶん忙しくて。シフト減らそうかなって思ってるんだよね」
また耳にかけるように髪をかきあげる。左耳にピアスが8〜9個、怪しげに光っていた
「そうなんだ」
普段の生活には力を入れずに生活している私にとって、アルバイトで彼女と会う機会が減ってしまうのは寂しいことだが、彼女の大学生活がサークル活動で彩られるのは喜ばしいことだ。
「人付き合いは面倒なんだけどね。サークルは楽しいんだよね。」
「何人規模のサークルなの?」
「200人くらいかな、インカレなの。」
「ずいぶん多いね、何してんの?」
ペットボトルの紅茶を飲み干し、彼女はニヤッと笑い、言った。
「秘密、今度飲みの時に私より飲んだら教えてあげる」
休憩を終え、それぞれの持ち場についたが"メダカ"が気になってなかなか業務に身が入らない。
考えうるのは「メダカの飼育や販売」だが、それだとサークルよりはアルバイトに近いだろう。
そして規模感である。200人もいるインカレサークルで、彼女は一体何をしているのだろう。
とても気になるが、どう考えても彼女から聞き出せる気がしない。彼女は酒豪で、私は下戸なのだ。
うとうと考えている間に店舗用の携帯がけたたましくないた。
電話担当だった私は定型文の挨拶を終え、電話越しの客からの話を伺った。
『メダカの本を探している』
「メダカの飼育本でしたらこちらでいくつかご用意がございます。ご来店時にいくつかご紹介しましょうか?」
と、伝えると
『飼育の本じゃないんだよね、"メダカ"の本なのよ』
と返答があった
さて、こうなってしまうと店側としてはとても困るものだ。
「"メダカ"の方と言うと作品のタイトルでしょうか」
『タイトルでもないんだよね、"メダカ"なの』
バナが話していた"メダカ"だろうか、と考えたがどれだけ探してもヒットしない。
作者名で、"日高"を"目高"と読み間違えている可能性も考慮し、その確認もとったがそれも客の求めているものではなく、なさそうだからいいわ、とアッサリ電話を切られてしまった。
仕事を終え、喫煙所で一人煙を蒸していたところ、遅れてバナが入室してきた。
軽く挨拶を済ませたあと、"メダカ"の電話があったことを伝えると彼女は苦笑いし、こう続けた。
「多分さっき話してた"メダカ"だね」
「インカレの?そんな本があるの?」
「ないない、あってもそれはエアドロでしか渡すことできないから、ウチらの店に聞くのは見当違いだね」
「なんだいそれは、マルチ商法みたいな手口を使うんだね」
「マルチじゃないよ、本当にただのサークル。お金も飲み会の時以外とられないし、啓発とかそういうのとも縁遠いから」
サークル活動に疎い私にとっては「そんなものか」と言葉を飲み込んだ。
何度も"メダカ"について問い詰めてみても「私より飲んだら教えてあげる」の一点張りである。
なによりも、そこだけが気になって仕方がなかった。彼女がどんなことをしているのか、気になって仕方がなかった。
その晩、201号でいつものように睡眠薬を飲み、布団に入りいくつかメダカに関して調べたが微睡んだ頭と、隣の部屋が発する洗濯機の轟音が子守唄となりそのまま眠りに落ちてしまった。
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