第8話 カタリストの週末と、聖域の住人たち

 あの夜、双子に「契約の印」を頬に刻まれてからの一週間。俺の日常は完全に、不可逆的に変貌した。


 昼休みには、結愛が持ってくる料亭のような三段重の弁当が当たり前のように俺の机に並ぶ。

 咲耶の「はい、りっくん。あーん」という破壊力抜群の波状攻撃を、クラス中の男子の怨嗟を浴びながら受け止めるのが日課になった。

 俺の内なる羞恥心もついに悟りを開きつつある。


 放課後は図書室の片隅が三人だけの聖域と化した。二人の完璧すぎるノートと的確な解説のおかげで、あれほど無味乾燥に見えた教科書の数式や年号が、少しずつ攻略可能な暗号のように見えてきたから不思議だ。


 ただ勉強を教えてもらうだけではない。どうやって調べたのかテストを作成する先生ごとの出題傾向と対策までまとめてくれた。

 おかげで要点を絞りあらゆる面で効率的な勉強ができ、まさに双子さまさまである。




 当然その異様な光景は教室中の注目の的だ。


 高遠は日に日に苛立ちを募らせる。俺を射抜く視線は嫉妬を通り越して殺意すら帯びていた。

 教室の隅では姫川さんが遠くから何か言いたげな瞳でこちらを見つめては、ふいと目を逸らす。


 クラスメイトたちの好奇と嫉妬、羨望の視線に一日中晒される日々。だからこそ、ようやく訪れた土曜日のこの誰にも邪魔されない一人の時間は、俺にとって何よりも貴重なものだった。





「さて、エネルギー補給の時間だ」


「土曜日ぐらい息抜きをしてもいいですよ」と咲耶から許可を得ていたので、今日は心置きなくエンジョイするつもりでテンション爆上げだ。


 俺はリビングを抜け、地下にある父さんの仕事場兼用のシアタールームの重い防音扉を開ける。そこは壁一面のディスクと最新の音響設備が整えられた、一色家の神殿。


 今日選んだのは、父さんがちょうど4K修復を終えたばかりのマニアックな80年代のSF映画。経年劣化による傷や色褪せが激しく、父さんが一週間以上この部屋に籠もりきりで蘇らせた一本だった。


 ディスクをトレイに滑り込ませて部屋の照明を落とす。


 巨大なスクリーンに映し出される映像と身体の芯まで揺さぶるような音の奔流に身を任せて、日常の喧騒を忘れていく。この没入感こそ父が追求し続ける「映画が作られた当時の体験」そのもの。


 物語が終わる。エンドロールの光が部屋を照らす頃には、俺の心には一つの確信が宿っていた。


 ――父さんが物理的な傷を修復レストアしたように今度は俺が、この物語を覆う誤解という名のノイズを剥がす番だ。



 自室に戻るとすぐにPCの電源を入れる。

 黒い背景に白い明朝体が浮かぶいつものブログ投稿画面。これは儀式だった。作品に敬意を払いその魂と対話するための。


「このチープなCGは、低予算という『制約』じゃない。監督の描きたかった世界の不完全さを象徴する『演出』だ」


 あるいは、「この矛盾したセリフは、脚本の『破綻』じゃない。主人公の引き裂かれた心の『叫び』そのものだ」と、次々と水が湧き出るように思考と言葉が浮かんでくる。



 そこからの時間はあっという間だった。

 指がキーボードの上を舞い、俺の言葉はテキストデータへと変換されていく。


 情熱と分析と、作品への愛を詰め込んだ数万字に及ぶ超長文レビューが完成した時、窓の外はとっくの昔に夜の闇に包まれていた。


「投稿」ボタンをクリックする。この瞬間だけが俺がこの世界と確かに繋がっていると実感できる時間だった。




 投稿後はもう一つの聖域『掃き溜めの天窓』にログインする。

 当時のブログ開始初期の頃から、熱心にコメント欄に書き込んでいたかけがえのない人たち。コメントや荒らしが多くなり管理が難しく閉鎖した後。

 初期から熱心な読者の、少数の人に緩く語り合える招待制サーバーに誘った。


 リアルで顔を知らなくても俺にとっては大事な人たちだ。

 案の定、俺の新しいブログ記事を読んだ仲間たちが、早速熱心に語り合っていた。



 ホライゾン:拝見しました。いつもながら見事な分析です、カタリスト。あなたのレビューを読むと、自分がまだその作品の表層しか見えていなかったことに気づかされる。感謝します。


 箱庭の管理人: 待っていたよ、カタリスト君。今回の『魂の修復』というアプローチは実に的確だ。君の言葉は単なる批評を超えて、作品そのものを深化させる力がある。素晴らしいの一言に尽きるね。


 筋肉ソムリエ: 読んだぞカタリスト君! あの主人公が覚醒するシーン、最高だったな! あれは単なるご都合主義じゃない。「精神が肉体のリミッターを外した」瞬間だ! 俺たちのトレーニングでも、『もう無理だ』と心が折れかけた後の、最後の一回が成長を決定づける。彼の心も一度完全に砕かれたからこそ、以前より遥かに強靭なメンタルを手に入れたんだ。まずは一杯、祝杯のプロテインといくか!


 終電の賢者: はいはいおつかれ。相変わらずあんたの文章は、愛が重すぎて読むのにカロリー使うわね。で、本題は? 例の美少女双子との勉強会とやらは、順調なわけ?


 いつものやり取りに強張っていた心が自然と和んでいく。終電の賢者さんの書き込みに、俺は思わず苦笑する。


 そして次にホライゾンさんが新たな書き込みをした。彼の冷静で知的な文章は俺がひそかに尊敬しているものだ。

 海外在住ということで色々気兼ねなく相談に乗ってもらう事が出来たので、俺のリアルをある程度知っている唯一の人でもある。

 個別チャットでもよく話をしていて、彼の好きなイギリス映画の情報を色々教えてもらっていた。


 ホライゾン:ところでカタリスト、一ついいニュースがあります。この夏、日本へ帰国することになりました。もし都合が合えば、一度お会いして直接映画の話などお聞かせ願えませんか。


 カタリスト:え、本当か、ホライゾンさん! もちろんだ、ぜひ会おう!


 箱庭の管理人:ほう、それは楽しみだね。彼の国の最新の映画事情など、ぜひ我々にも聞かせてほしいものだ


 終電の賢者:あら、ネット弁慶の坊やが、ついにリアルデビュー? せいぜい幻滅されないように、ちゃんとお洒落して行きなさいよ。


 透き通るプリン:……オフ会、ですか。カタリストと? 男二人で会って、何の話をするのかしら。


 しゅわしゅわソーダ:いいないいなー! 私も行きたいです! ホライゾンさんって、カタリストくんと仲良しなんですよね! ちょっとだけヤキモチ妬いちゃいます!



(プリンさんもソーダさんも、意外と独占欲が強いんだな。でも、男友達と会うのにヤキモチって……。面白い人たちだ)


 そんな呑気な感想を抱いていると、ピコンと静かな部屋にスマホの通知音が響いた。画面に表示されたのは、「一ノ瀬 結愛」という名前。


『律。夜分にごめんなさい。まだ起きてる?』


 メッセージを開くとすぐに次の吹き出しが現れる。まるで俺がスマホを手に取るのを待っていたかのように。


『実は明日の日曜日に一緒に勉強したくて。もし迷惑じゃなければ、少しだけ時間を取ってもらえないかしら?』



 返信を打ちあぐねていると間髪入れずピコン、ともう一件。

 今度は「一ノ瀬 咲耶」からだ。


『りっくん、こんばんは。突然すみません。実は明日、駅前に新しくできたケーキ屋さんの限定スイーツが発売されるんです! テスト前の景気づけに一緒に食べに行きませんか? もちろん勉強の質問も受け付けます!』


 うーん、二人からの誘い自体は正直に言ってめちゃくちゃ嬉しい。

 だがテスト直前に遊びに行くのはマズい。高遠との約束もある。


 迷った末に俺は一つの決意を固めた。ここで浮かれていては二人に顔向けができない。テストまではケジメをつけるべきだ。

 俺はゆっくりと自分の気持ちを言葉にして打ち込んでいく。


『誘ってくれてありがとう。すごく嬉しい。でも来週のテストが終わるまでは、勉強に集中したいんだ。高遠くんとの勝負にも絶対に勝ちたいから』


 少し間を置いてこう続けた。


『だからもし俺が高遠くんに勝てたら。その後に二人をどこかに連れて行かせてくれないか?』


 送信ボタンを押した瞬間、心臓がドクンと大きく鳴った。

 これでもし引かれたらどうしよう。調子に乗っていると思われたら?


 そんな不安は数秒で消え去った。


 スマホがまるで呼応するかのように同時に震える。結愛と咲耶、それぞれからの返信だった。


『わかった。その言葉が聞けて嬉しい。アタシたちの見込んだ通りの男ね、あなたは。最高のデートプランを考えておくから、絶対に勝ちなさい』


『きゃー! りっくんカッコ良すぎます! わかりました。私、りっくんが勝つのを信じてます! 最高のデート、すっごく楽しみにしてますねっ!』


 文面から二人の喜びが伝わってくる。どうやら俺の答えは満点回答だったらしい。



「はぁ……全く、口だけはまわるようになっていくな」


 あの二人の純粋すぎる期待。高遠に負けて土下座するより、二人に「律って、意外と口だけだったのね」と失望される方が、よっぽど致命傷だ。

 俺をプロデュースすると決めた、あのとんでもない双子の顔に泥を塗るわけにはいかない。最近この日常にもやっと慣れてきて気に入っているんだ。


「やるか。やるしかない」


 俺は決意を新たにより一層勉強を頑張ることを心に誓った。

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