第5話 決戦は中間テスト、最強の家庭教師は美少女双子

 中間テストの二週間前。大型連休の浮かれた空気がまだ抜けきらない、気の抜けた放課後のホームルームに、担任の気怠げな声が響いた。


「GWボケもいい加減にしろよー。再来週から中間テストだ。赤点だけは取るなよー」


 教室のあちこちからお約束の悲鳴が上がる。俺もテストは憂鬱だった。基本的にはいつも中の下ってところが定位置。そもそもまともにテスト勉強をしたことがないんだけど。

 赤点を回避できるなら勉強時間は映画を見るのが有意義ってもんだ。


 そんなことを考えていたら背後から軽蔑をたっぷりと含んだ声が、毒針のように俺の背中に突き刺さった。


「見た目だけ取り繕っても、頭の中身は残念なまんまじゃ意味ねーよな?」


 声の主は高遠翔。取り巻きと一緒に俺を見て下卑た笑みを浮かべている。どうやら本格的にロックオンしたらしい。面倒な。


 俺が何も言い返さずにいると教室の後方から、凛とした氷のような声が響いた。


「あなたには彼の価値が永遠にわからないのね。可哀そうに」


 声の主は結愛だった。彼女と一緒に咲耶も席を立ち、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 結愛の氷点下の声に高遠が一瞬たじろぐ。すかさずその隣に立つ天使が完璧な笑顔で追撃をかけた。


「りっくんの本当のすごさは、偏差値みたいに単純な数字で測れるものじゃないんですよ?」


 高遠の顔が苛立ちに歪む。


「うるせえな! テストで俺より点取ってから言えってんだ!」


 ああ、もういい。

 黙って聞いていれば好き放題言ってくれる。


 怒りではない。呆れだ。俺の代わりに姉妹を矢面に立たせるのもきまりが悪い。


 珍しく言い返したくなり、俺の脳の分析回路がカチリと音を立てて起動した。今までなら高遠に言い返す事なんてしなかっただろうが、ここ最近起こった環境の激変で俺にも変化があったらしい。


 ずっと俯いていた顔を静かに上げる。ただ淡々と。


「一つ訂正してもいいかな、高遠くん」


 俺の唐突な発言に教室がシンと静まり返った。

 コンタクト越しのクリアな視界で、まっすぐに彼を捉える。


「君のその自信は、『俺の過去の成績』という極めて限定的なサンプルから導き出した、観測バイアスのかかった仮説に過ぎない。違うかな?」


 挑発の意図はない。ただの事実確認だ。

 しかしその静かな言葉は、高遠の低い沸点に届くには十分すぎたらしい。


「な、なんだと、テメェ! 上等だ!!」


 高遠が机を蹴飛ばすように立ち上がった。


「そこまで言うなら証明してみろよ! 次の中間テスト、俺とお前のどっちが総合順位が上か勝負だ! 負けたら土下座しろ。『いきがってすみませんでした』ってな!」


 クラス中の視線が突き刺さる。俺は一度だけ短く息を吸って静かに思考の海に沈む。


 面白いじゃないか。まるで三流の学園ドラマだ。ここで主人公が覚醒してライバルを見返すベタな見せ場。だが悪くない。

 ピーター・パーカーが、ただの高校生からスパイダーマンになったように。俺も失恋しただけの陰キャから、少しは前に進むべき時が来たのかもしれない。


 俺は一度、双子の方へ視線を送る。二人は力強く頷き返してくれた。その無言の応援だけで覚悟を決めるには十分だった。


 俺はゆっくりと顔を上げ、高遠をまっすぐに見据えてはっきりと告げた。


「――わかった」


 賭けは成立した。

 その瞬間俺の脳内は大音量のサイレンを鳴り響かせた。



 あぁ……やってしまった。相手の論理的欠陥を冷静に指摘してしまうこのオタク特有のさがが、人生最大級の死亡フラグを建築してしまった!

 高遠はトップクラスではないものの、勉強もかなり出来るはずだ。今から間に合うのか?


 ってか一方的で俺にメリットがない条件だ。だがまあ見方を変えれば、友達のいない俺は土下座ぐらい一時の恥で済ませてもいい。二人に失望されないといいなとちょっと思うが。


 それに仮に俺が勝っても高遠の土下座なんて、別に見てもしょうがない。逆恨みされたら嫌だし。負けたら二度と絡んでこないようにこっちも条件を付けるか。俺は平穏な生活を送りたいんだ。


 内心で微妙に後悔している俺を見て結愛が満足げに小さく頷き、咲耶が「さすがです、りっくん!」と声もなく唇を動かした。どうやら、この状況を楽しんでいるのはこの二人だけのようだ。





 その日の放課後。

 俺は一人、図書室の隅の席で教科書を広げていた。先ほど自分で立ててしまった巨大な死亡フラグをどうにかへし折るべく、早速対策に取り掛かったわけだ。


 するとなんの前触れもなく俺の右側に結愛が、左側に咲耶が、ごく自然に椅子を引いて座った。


 その瞬間、思考が止まる。

 今まで教室や駅前で話すことはあっても図書室の静寂の中、こんな至近距離で二人と向き合うのは初めてだった。昼飯の時もこれほど近くはない。


 右側の結愛。窓から差し込む西日が、彼女の艶やかな黒髪を輪郭に沿って黄金色に縁取っている。

 普段はクールなその瞳が、ノートに落ちる長いまつ毛の影のせいで、どこか憂いを帯びて見えた。

 整った鼻梁に少しだけ開かれた瑞々しい、柔らかそうな唇。すべてが、完璧な芸術品のように美しかった。


 左側の咲耶。彼女は机に肘をつき楽しそうにこちらを見ている。太陽の光を吸い込んでキラキラと輝く、大きな潤んだ瞳。

 少し首を傾げるたびにさらりと流れる髪から、ふわりと甘い香りがした。双子でありながら違った美しさ。二卵性双生児というやつなのかもしれない。


 二人分の美貌と良い香りが、俺のパーソナルスペースを完全に侵食している。

 心臓の音がやけに大きく聞こえる。あまりのことに声も出せずに固まっていると、結愛が不思議そうに小首を傾げた。


「どうしたの、律? 顔が赤いけど」


 咲耶が俺の顔を覗き込むように、すっと距離を詰めてきた。整った顔が目の前に迫る。反射的に息を止めてしまう。

 俺が固まっているのに気づいた咲耶の口元が、ほんの少しだけ楽しそうに緩んだ。


「もしかしてのぼせちゃいましたか? 大丈夫ですか、りっくん?」


 今度は咲耶が心配するフリをして、そっと俺の額に手を伸ばしてくる。ひんやりと柔らかい感触。


「いや別に熱があるわけじゃないから大丈夫だ!」


「そうですか。風邪でも引いたら大変ですから、気をつけてくださいね」


 そういって咲耶は可愛らしく手を引っ込めた。全く、心臓に悪い。


 俺が二人によって思考能力を奪われかけていると、ふと視線の先に見知った人影があることに気づいた。


 書架の陰からこちらをじっと見つめている。……姫川さんだ。

 彼女は手にしていた本を棚に戻すでもなく、ただ立ち尽くして俺たち三人の姿を見ていた。その表情は遠くてはっきりと読み取れない。

 だがいつもクラスで見せる明るい笑顔とは、全く違う何かを浮かべているように見えた。


 その姫川さんの存在に気づいた結愛が、はっきりとした口調で提案する。


「律。ここは少し、視線を感じて集中できないわね。勉強は環境が大事よ」


「そうですね!」


 咲耶が最高の笑顔で乗っかる。


「それに、りっくんのお腹も空いちゃいますし! ねぇ、りっくん!」


 咲耶はぐっと身を乗り出して俺の目を真っ直ぐに見つめ、とんでもないことを言った。


「これから、りっくんのお家で勉強会しませんか? 私たち、勉強でわからないところを教えますから!」


「え、俺の家で?」


 俺が戸惑いの声を上げると結愛がにっこりと、しかし有無を言わさぬ完璧な微笑みで告げる。


「決定ね、律」


 チラリと書架の方を見る。姫川さんが唇をきつく噛みしめて、静かにその場を去っていくのが視界の片隅に映った。


 俺の部屋にこの二人が来る。決まってしまった。一体どうなるんだ、これ……。

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